野球善哉BACK NUMBER
日本ハム黄金期が生み出したもの。
出身コーチに共通する指導姿勢とは?
text by
氏原英明Hideaki Ujihara
photograph byNIKKAN SPORTS
posted2015/06/18 10:40
2004年、北海道移転1年目の日本ハムベンチの様子。ヒルマン監督に白井一幸コーチ、小笠原道大の姿も見える。ここから多くの名指導者たちが巣立ったのだ。
中田、陽、糸井、西川といったクセの強い選手達。
ロッテの外野守備・走塁コーチの清水雅治もコーチのあるべき姿についてこう証言している。
「自分の野球論を選手に植え付けるのがコーチ論、みたいな考え方が以前はあったように思いますけど、日本ハムでは選手を最優先にした指導論を習いましたね。選手をどうやったら生かせるか、どう伸ばせるかをもっと考えなきゃいけませんよね、みんなでそれを考えようよという空気がありました。
例えば当時は中田翔や陽岱鋼、糸井嘉男、西川遥輝といった、一つ間違えればどうなっていたか分からない選手たちがいました。特に翔なんかは、気が強くてやんちゃな子ですから、もし『この人とは合わない』というコーチがでてきていたら、いくら彼に力があっても伸びられなかったかもしれないと思います。コーチに選手が合わせるのではなくて、選手にコーチが合わせるところがハムの良さだったんじゃないかな」
二軍コーチが毎日「日報」を書くという習慣。
さらに清水コーチは、日本ハム時代に経験したある“習慣”についても教えてくれた。
それは、二軍のコーチが毎日必ず、指導のレポートを球団上層部に届けているという習慣だ。一般サラリーマンでいうところの、日報のようなものである。
「選手がたった一日で極端に変わることはない。でもその中で、今日はこういうことを意識させてみた、変えてみたとかそういうことを伝えて共有していました」
ヤクルトの内野守備走塁コーチの三木肇は、この日報が指導者としての成長を促してくれたと話す。
「日報を書くのは時間がかかるので、その時間を選手との会話にあてた方が良いとか、いろんな考えは確かにあると思うんです。ただレポートすることによって、自分が何をどのように指導しているか明確になりますし、どうやったら自分の考えが相手に伝わるかの勉強になりました。僕は選手たちにこういったけど、ちゃんと伝わったのかどうか。それが選手たちが本当に求めていたことなのか、言い方はそれで良かったのか、とか。伝え方についても学ぶことができました」