フットボール“新語録”BACK NUMBER
野洲サッカーを育てた異端の指導者、
岩谷篤人が挑む“最後の選手権”。
text by
木崎伸也Shinya Kizaki
photograph byShinya Kizaki
posted2012/12/30 08:01
身振り手振りをまじえ、野洲高校の生徒たちを教える岩谷。冬の全国高校サッカー選手権大会は、今年で2年ぶり8回目の出場となった。
「今大会で高校サッカーの考え方を、 根本から変えてやろうと思っている」
岩谷篤人(野洲高校ヘッドコーチ)
今年の全国高校サッカー選手権で、個人的に注目している高校がある。滋賀県代表の野洲高校だ。
野洲といえば、2006年の高校選手権の優勝を思い出す方が多いだろう。高3に楠神順平(川崎フロンターレ)、高2に乾貴士(フランクフルト)を擁し、高校サッカーでは異例の魅力溢れるスタイルで初優勝を成し遂げた。
当時、セクシーフットボールというキャッチフレーズもさることながら、野洲を率いる山本佳司監督の経歴も話題を集めた。元々レスリングの選手だったが、ケルン留学でヨーロッパのサッカーに魅了され、サッカー指導者の世界へ。教員として赴任した野洲で次々に改革を実行し、無名の公立高校を日本一に導いた。山本著の『野洲スタイル』に、詳しい経緯が書かれている。
野洲高校優勝のもうひとりの功労者、岩谷篤人の歩み。
ただし、この野洲優勝には、もうひとり功労者がいることはあまり知られていないだろう。山本監督が“ロングボールに頼らない攻撃的なサッカー”というグランドデザインを描く上で、ある人物がヘッドコーチとして具体的な戦術と技術を指導したのである。
その人物とは、セゾンFCの岩谷篤人監督。知る人ぞ知る、育成界の天才指導者である。
岩谷の経歴は、山本以上に“異端”である。関西の名門国立高校、京都教育大付属でサッカーを始めると、「見た動きをすぐに再現できる」という特技を生かして、瞬く間に全国レベルの選手に。インターハイと国体に出場した。
普通ならサッカーを続けるところだが、まだ日本にプロリーグがなかった時代だ。岩谷は複数の大学からの誘いをあっさり断り、さらに同級生が一流大学に進学するのを横目に高校卒業後そのまま就職。ルールに縛られず自由に生きる、いわゆるインテリ不良だった。
しかし、サッカーの引力が、この異端児を放っておかなかった。学校教材の営業マンをしていたとき、学校から「ぜひ少年団を指導してほしい」と懇願されたのだ。岩谷はボランティアで指導を続けたが、「コーチのようになりたい」という子供たちの無邪気な夢を裏切っているような罪悪感にとらわれ、会社を辞めてプロクラブを立ち上げることを決意。1984年、滋賀県の西武百貨店の融資を受けて、小学校・中学校年代を指導するセゾンFCを設立した。岩谷が32歳のときのことだった。