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<甲子園エースという人生> すべてはあの夏から始まった。~正田樹/寺原隼人/吉岡雄二/大野倫~
text by
城島充Mitsuru Jojima
photograph byHideki Sugiyama
posted2012/08/14 06:00
投手の生命線は、スピードだけではない――。
「あのころが一番辛かった」と寺原が振り返るのは、1年目に6勝をあげたときだ。高卒ルーキーとして十分評価できる数字だが、周囲から「松坂と比べると物足りない」と指摘された。「結局、松坂さんと比較されて叩かれてしまう。そんなんだったら、あんな記録ださなかったらよかったと思いました」
投手の生命線はスピードだけではない――。プロのマウンドでそのことを痛感したことも、そんな思いにかられた要因だった。
「速ければ速いほど有利ですけど、プロはそれだけじゃ通用しません。緩急、打者とのかけひき、トータルな投球術がないと勝てないことを痛感しましたから」
その後、ソフトバンクから横浜、そしてオリックスと、リーグをまたいで球団を渡り歩いてきた。プロのキャリアは10年を越え、二ケタ勝利も2度達成している。あくまで「最速」を狙い続けた高校時代の豪胆さをどこかに残しながら、目の前の寺原にはどこか達観した落ち着きが見える。甲子園のマウンドで輝いたあの経験は、どのような形で心のなかにあるのだろうか。
それでも当時の自分には「最速記録を狙えっていいますよ」。
「『甲子園最速』の看板に苦しんだこともありましたが、今でも街で声をかけてくれる人は高校時代の僕を覚えてくれている人が多いんです。だから、甲子園は自分の名前を売る舞台だったなって思います。写真週刊誌に載ったのも当時は嫌でしたが、今ではなかなかないことなんじゃないかって(笑)」
ピッチングの妙味を知った今、甲子園のマウンドに立つかつての自分にどんな声をかけるのだろう。やはり、記録を狙えと背中を押すのか、それとも勝利を最優先して……。
寺原は「それは、記録を狙えっていいますよ」と即答した。
「甲子園というのは1つ負けたら終わる世界ですから、そこで名前を残せるチャンスがあるなら狙うべきでしょう」
巨人に入団後、紆余曲折の野球人生を送った吉岡の思いとは?
そして、連続インタビュー4人目は沖縄水産を2度準優勝に導いた大野倫。
故・栽弘義監督が、満身創痍のエースを右肘が折れるまで替えなかった真意とは――。
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