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<甲子園エースという人生> すべてはあの夏から始まった。~正田樹/寺原隼人/吉岡雄二/大野倫~
text by
城島充Mitsuru Jojima
photograph byHideki Sugiyama
posted2012/08/14 06:00
“松坂越え”の最速ストレートを記録した、寺原隼人。
21世紀を迎えた夏、甲子園を席巻したのは、日南学園(宮崎)の寺原隼人だった。練習試合で150km台を記録していた寺原は、当時甲子園最速だった松坂と新垣渚(沖縄水産、現ソフトバンク)が持つ151kmの記録を破ることを公言していたのだ。
「松坂さんは憧れの存在でしたが、スピードだけだったら、越えられるんじゃないかという気持ちはありました」
現在、オリックスで先発ローテの一角を担う寺原は「甲子園のお客さんが新記録を期待してくれてすごい声援だったんです。最初は緊張しましたが、あの感覚がだんだん気持ちよくなって……。ボールを投げてもいいカウントになると、思い切って腕を振りました」と、少年のような笑みを浮かべながら振り返った。
当時の甲子園球場にはスピードガン表示がなく、寺原はもちろん、観客も球速がすぐにはわからない。そんななか、観客とマウンドに不思議な一体感があったのだという。その半面、宮崎の天真爛漫な少年は重圧も感じていた。1回戦でタイ記録の151kmを記録しても、焦りだけが募った。
「最初で決めようと思ってたんでショックでした。これだけ騒がれて抜けなかったら、めちゃくちゃカッコ悪いなって」
正田と同様、プロで待ち受けていたのは、怪物との比較だった。
甲子園に新たな伝説が刻まれたのは、対玉野光南(岡山)戦だった。5回からリリーフした寺原が投げ込んだ5球目、アウトコースにはずれたボールが154kmをマークした。
「投げた瞬間、これはいったかなとは思いました。記録が出たことをいつ、どこで聞いたかは覚えてないんですが……」
翌日のスポーツ紙は寺原の新記録に多くの紙面をさいた。メジャーのスカウトのスピードガンが158kmを表示したという記事もあった。寺原は「そんなに出るわけない」と苦笑したが、チームが準々決勝で敗れてからも“寺原フィーバー”は続いた。
ダイエーにドラフト1位で入団したときも、スポーツ紙に「160kmだすぞ」という強気なコメントが載った。だが、「松坂を越えた男」は正田と同様、怪物と比較される苦悩を次第に感じていく。