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ジュゼッペ・ロッシ 「流浪のストライカー」
text by
中嶋亨Toru Nakajima
photograph byMutsu Kawamori
posted2009/02/26 00:00
「シャイな子だからね……」
取材を申請した当初、クラブ広報は難しそうな顔をした。その上、練習中に左足首を負傷し、その週のリーガを欠場。雲行きはさらに悪くなっていた。
幸い許可が下り、取材当日の2月6日、練習開始1時間前に訪れると、偶然にも彼と鉢合わせした。足の具合は? と聞くと微笑みながら、「かなり回復したよ。もう問題なくプレーできる。気遣い、ありがとう」。
では練習後に、と見送る。
「OK!」
しっかりと親指を立てながら、彼はクラブハウスの中へと消えていった。
2月1日に22歳となったジュゼッペ・ロッシは、アメリカ・ニュージャージー州のティーネックというニューヨークのベッドタウンで生まれた。
イタリア系アメリカ人でイタリア語教師を務めていた両親は、息子に英語のジョセフではなく、イタリア語のジュゼッペと迷うことなく名付けた。父フェルナンドは息子をイタリア人として、そして自らと同じミラニスタ(ミランのファン)として育てることを強く望んだ。そのためか、ロッシの少年時代の思い出はサッカーで溢れている。
「公園に行くと、他の親子はキャッチボールをしていたけど、僕と父はいつもボールを蹴っていた。元サッカー選手の父のおかげで、僕はどんどん上達していった。左利きの僕に右足のレッスンもしてくれたしね」
サッカーがマイナースポーツであるアメリカで、ロッシはサッカー漬けの日々を過ごすことになる。4歳の時には、父が監督をしていた少年サッカーチームに入った。家に帰ると、衛星放送でセリエAの試合をかじりつくように見ていた。
「人気のあるNBAやMLBを見ることはなかった。友達のヒーローはバスケットやベースボールの選手だったけど、僕のヒーローはミランで活躍した(マルコ・)ファンバステンだった。他にファンバステンのことを知ってる子なんて、ほとんどいなかったけどね。僕にとって一番のスポーツは、常にサッカーだったんだ」
ロッシはビジャレアルのチームメイトであるアメリカ代表のジョジー・アルティドールのように、プロになることを前提としたエリート教育を受けたわけではなかった。人口約4万人のティーネックで少し名前を知られている、いちサッカー少年に過ぎなかったのだ。
「もしあのままアメリカに住んでいたら、今、僕はここにいない」
ロッシ少年は欧州はおろか、アメリカでもプロになれるとは思っていなかった。しかし、期せずして大きな転機が訪れる。セリエAのパルマとコネクションを持つスカウトが、入団テストを受けないかと打診してきたのだ。ロッシのプレーを目の当たりにしたパルマのスタッフは、獲得を即決。両親の仕事先から一家の住居まで、すべての面倒を見ることを約束するほどの惚れ込みようだった。