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読売巨人軍・清武代表に聞く 「人材育成の新戦略、成功までの舞台裏」
text by
阿部珠樹Tamaki Abe
photograph byNaoya Sanuki
posted2009/11/16 10:30
試合前に自らトンボを持ってグラウンドを整備する育成選手たち
若手の成長を促す新たな戦略は、どんな経緯で生まれ、なぜ実を結んだのか。「育成枠」の出世頭、山口、松本や“G改革の仕掛け人”に話を聞き、その秘密に迫った。
山口鉄也は片道16時間のバス移動をしたことがある。観光などではない。バスに揺られて着いて、ユニフォームに着替えて試合をした。アメリカのルーキーリーグにいたときのことだ。
「8時間ぐらいの移動はよくありましたが、さすがに16時間というのは」
モンタナ州の片田舎のチームで、普通の家庭にホームステイして、1カ月900ドルの給料でやりくりした。4シーズン過ごし、4シーズン目の'05年秋、日本に戻ってプロの入団テストを受けた。ベイスターズ、イーグルスのテストに落ち、最後に残ったジャイアンツからもすぐにははかばかしい返事がもらえなかった。
山口鉄也は“育成”の申し子である。
「やっぱりきびしいかなあ」
あきらめかけていたとき声がかかった。「育成」という枠で採用するというのだ。支配下の選手ではなく、契約金も出ない。それでもプロに足がかりだけはできる。
「とりあえずよしとしなきゃという気持ちでした」
もし山口の帰国が1年早かったら、'08年の新人王は山口以外の選手の手に渡っていただろう。育成ドラフトの制度ができたのは、まさに山口の帰国した年の秋だった。育成の申し子といっても大げさではない。
「育成といっても背番号が大きいくらいで、練習は二軍の人とまったく同じだったし、1年目から25試合も登板させてもらうことができました」
ただし3年で支配下選手としての契約ができなければユニフォームを脱がねばならない。期限のことはいつも頭にあった。
'06年のシーズンが終わった時、支配下選手になれるかという期待があったが、声がかからない。採用を決める代表の清武英利に電話で食い下がった。
「どうして上がれないんですか、とまではいいませんでしたが」
寡黙な山口がなかなか電話を切らないので、清武は納得させるのに苦労したようだ。
「順風満帆」の環境では山口の飛躍はあり得なかった。
しかし、育成の身分で過ごした'06年秋から'07年春までが山口の飛躍につながった。
「代表やコーチのかたからここでクサってはだめだといわれましたし、自分でも春には絶対上がろうと思って練習に集中しました」
'07年の春には入団したころよりも10kmあまりも速いストレートを投げるようになっていた。その年には支配下に入り、一軍に登場した。新人王になった去年の活躍はいうまでもない。
「順風満帆でプロに入っていたら、ぼくみたいな選手は成長しなかったんじゃないでしょうか」
高校までは、どこの所属チームでもつねに一番の選手だった。それが当然で、必死にやるまでもないという考えが染み付いていた。それがルーキーリーグ、育成枠という「逆境」で鍛えられた。これこそ育成枠を作った狙いで、その点でもやはり山口は育成の申し子なのだ。