ジャングルポケットとフジキセキをはじめ、幾頭もの駿馬を育てた名伯楽・渡辺栄。その知られざる生涯を弟子の角田晃一師と長男・隆さんの証言で振り返る。(原題:[特別コラム]ジャングルポケットとフジキセキを育てた男 渡辺栄「心優しきダービートレーナーの一生」)
その昔、現在の栗東トレーニング・センターから10kmと離れていない場所に「草津競馬場」があった。滋賀県で乗降客数第1位を誇る草津駅から徒歩1分という便利な場所にある大型ショッピングモールがその跡地だ。競馬場は1931年に開設され、戦争による休みを挟みながら1951年まで競馬が開催されていた記録が残っている。
1933年に新潟県北蒲原郡本田村(現・新発田市)の農家の五男として生まれた渡辺栄は、幼少期から農耕馬に親しんで育ち、中学卒業後にその草津競馬場で見習い騎手として働いた。しかし、仕事は重労働かつ危険が伴うものだったそうで、栄少年は一念発起して脱走。国営競馬(現・JRA)の淀競馬場(現・京都競馬場)に必死の思いで逃げ込んだという。たまたま飛び込んだ厩舎には調教師が不在で、代わりに対応した厩務員が「兄ちゃん、向こうの厩舎に行ってみな」と指差して教えてくれたのが、のちに三冠馬シンザンを輩出する武田文吾厩舎だった。武田師はさすがと言うべき懐の深さで渡辺を即決で雇い入れ、「明日から北海道へ行って、馬を見てきなさい」と、大枚の旅費をその日に出会ったばかりの若者に手渡して歓待したという。
「お酒が入ってほろ酔いになったときの先生から、何度か聞いた話です」と教えてくれたのは渡辺の弟子にあたる角田晃一現調教師。渡辺は角田の前にも一人だけ弟子を取っていたが、騎手になる前に目に怪我を負ってしまい、その後は調教助手として渡辺厩舎を支えた。唯一の所属騎手となった角田は、その方の分も合わせて渡辺に溺愛されたという。
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photograph by SANKEI SHIMBUN