#1074
巻頭特集

記事を
ブックマークする

<三冠王バースが「尊敬してやまない」監督>安藤統男が築いていた1985年日本一の礎【84歳が語る「育成」と「忍耐」の3年間】

2023/06/04
'85年のバースは打率.350、54本塁打、134打点で三冠王に輝いた
3年間の成績は3位、4位、4位。あまりにも急で一方的な就任要請、トラブルに翻弄され、理不尽なバッシングも浴びた。だが、断言できる。この男の功績なくして、あの栄光はなかった、と。

「大変なことが起こった。とりあえず大至急、日本に戻ってこい!」

 教育リーグ参加のために渡米していた安藤統男に連絡が入ったのは、1981年秋のことだった。すぐにフロリダ州タンパからサンフランシスコを経由してホノルルまで飛んだ。その日はすでに飛行機がなく、翌日早朝の便で成田に到着。自宅に戻ることなく、梅田の球団事務所に向かった。

 当時、安藤は阪神タイガースの二軍監督を務めていた。渡米前には「お前が帰国する頃には広岡が監督になっているからな」と言われていた。安藤が当時を振り返る。

「前任の中西太さんの退任が決まって、後任監督として広岡達朗さんに絞って交渉をしていたそうです。ところが、契約がうまくいかずに、“とりあえずお前にやってもらわなければ困るんだよ”となったけど、僕としても何も準備していないわけです。それでも、“タイガースのために頼む”と言われれば、引き受けるしかないでしょう」

 チームにとっての非常事態だった。このとき阪神のオファーを固辞した広岡は、西武ライオンズの監督に就任する。同時に安藤は第22代監督として古巣を率いることになった。監督就任にあたって、球団は異例ともいえる「5年契約」を提示した。

「球団から“3年でチームを作ってほしい”と言われました。その上で、残りの2年で優勝を目指して勝負する。さらには、“お前は若いのだからその後も(契約を)3年延長して、また新しいチームを作ってほしいと思っている”とも言われました」

会員になると続きをお読みいただけます。
オリジナル動画も見放題、
会員サービスの詳細はこちら
特製トートバッグ付き!

「雑誌プラン」にご加入いただくと、全員にNumber特製トートバッグをプレゼント。
※送付はお申し込み翌月の中旬を予定しています

photograph by Bungeishunju
前記事 次記事