「ときに厳しく、常に愛情を持って接してもらっていた」イチローは1994年に出会った恩師について、そう表現した。非情であるのに、慕われる。そう評される遅咲きの指揮官は勝利を追求する中でどのように教え子たちと接してきたのか。近鉄、オリックスで薫陶を受けた3人が語る、名将の素顔――。(原題:[教え子たちの術懐]仰木彬「勇気をくれた人でした」Number1072号)
仰木彬⇔教え子<コミュニケーションの極意>
①若手の失敗を許容する
②主力選手には何も言わない
③メディアの注目を集める
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不思議な監督だった。非情な采配を振るうのに、選手から慕われた。野茂英雄やイチローを育てた名伯楽・仰木彬のことだ。
「人脈だけに頼るんじゃない。多くの人から、いろんなことを吸収しなさい」
18歳で西鉄に入団した仰木は後年、知将・三原脩にそう諭されたという。仰木は32歳で現役引退してから52歳で近鉄の監督に就くまで、コーチとして20年間で6人もの監督に仕えた。中西太、三原という西鉄時代の繋がりだけでなく、縁もゆかりもない岩本堯や西本幸雄などの元でも働いた。この経験が、相手の懐に飛び込んでいくコミュニケーション力を生んだ。
1980年代の猛牛軍団でトップバッターを務めた大石大二郎は、仰木の名将への布石となる下積み時代を知る一人だ。
「仰木さんから非情さや厳しさを感じた記憶はないですね。僕が迷っている時に勇気を与えてくれる人でした」
プロ2年目の'82年、23歳の大石は「2番・セカンド」で開幕スタメンに名を連ねた。しかし、5試合23打席ノーヒットと快音が出ない。スタメン落ちを覚悟した夜、藤井寺の『球友寮』に電話があった。声の主は仰木だった。
「関口(清治)監督は使い続けると言っているから、思い切ってやれ。バントや守備でチームに貢献しているから安心しろ」
翌日、大石は内野安打とライト前クリーンヒットを放った。
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photograph by Koji Asakura