地元・神戸での試合開催すら危ぶまれながら、いかにして未曾有の
危機を乗り越えたのか。名将・仰木彬の真髄が凝縮された奇跡の
シーズンを、当時の選手、球団代表ら5人の証言をもとに振り返る。
米国コスモ石油副社長などを歴任し、公募でオリックスのフロント入りした井箟(いのう)重慶は球団代表を務めた1990年からずっと、A4判の大きなスケジュール手帳を愛用している。今もスペシャルアドバイザーとしてチームにかかわる井箟が2000年までの代表時代を振り返るとき、もっともよく手にするのは'95年の手帳だ。
この年の1月17日午前5時46分、淡路島を震源とするマグニチュード7.3の大地震が、本拠地である神戸の街を揺らした。以来、混乱のなかで一日一日の動きを刻み続けた文字は、苦境のなかから立ち上がったチームのさまざまな記憶を呼び戻してくれる。
「まず、各地で自主トレ中だった選手たちの安否を確認しようとしましたが、電話がつながらない。地震の被害が明らかになってくるにつれ、これは野球どころじゃないぞって思いました。宮古島のキャンプも中止を検討したし、球場は無事でしたが、1年間だけフランチャイズを借りて京都の西京極とか、岡山の倉敷球場に本拠地を移すほうがいいかもしれない。そんなことも考えました」
「こうなったらバタバタしても仕方がない」
前年の'94年シーズンからチームの指揮を任せた仰木彬と震災後初めて顔をあわせたのは、1月24日だ。東京で開かれるプロ野球連盟の会合の場だった。この日の手帳に〈姫路〉や〈岡山〉の記述があるのは、神戸から上京する交通網が遮断され、いったん岡山に出てから空路で東京へ向かったからだ。
まだ被害の状況さえ、正確に把握できていなかった。選手や関係者全員の無事が確認できたのは、その3日後だ。参加できるメンバーだけで、キャンプ地の宮古島に集まることを決めた。
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