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「年俸が安くて、オフにはバイトしていた」若手捕手が大選手・田淵幸一と交換で阪神入り…「ビール瓶が飛ぶ球場」から甲子園で受けた衝撃
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元永知宏Tomohiro Motonaga
photograph bySankei Shimbun
posted2026/08/17 11:00
1979年、田淵幸一との大型トレードでクラウンライターから阪神入りした若菜嘉晴(左)が出会ったのが巨人から移籍してきた小林繁(右)だった
「阪神の新監督になるドン・ブレイザーが、イキがよくて動けるキャッチャーを欲しがったのかもしれません。僕と田淵さんのトレードは決まっていたようですが、スーパースターの田淵さんを出すわけですから、球団同士でいろいろな駆け引きがあったんでしょう」
阪神の田淵とベテラン投手の古沢憲司、クラウンライターの若菜、真弓明信、竹之内雅史、竹田和史という2対4の大型トレードが実現することになった。
「僕は(ライオンズの)秋季キャンプには行っていないんですよ。自分ひとりで、スポーツジムで走ったり、ウエイトトレーニングをしたりしていました。トレードがどうなるのか、僕たちにはわかりませんでした」
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若菜と同い年で、高校時代の同級生でもある真弓は、社会人野球の電電九州を経て、若菜の1年遅れで西鉄に入団。1978年には118試合に出場し、打率.280、8本塁打を放っている。若菜も真弓も、伸び盛りの25歳だった。
「はじめ、真弓は候補に入っていなかったはずですよ。最終的には根本さんが折れる形で、真弓をトレードに出したんだと思います。僕は長身でホームランも打てる田淵さんに憧れてキャッチャーを始めてプロ野球に入ったから、このトレードは光栄でした」
年俸が安くて、オフにはバイトをしていた
福岡県生まれの若菜にとって、埼玉県は遠かった。所沢に移転すると言われてもピンとこなかった。だから、日本プロ野球をけん引する巨人と並ぶ人気球団への移籍は願ったりかなったりだった。
「僕は西鉄でプレーした最後のほうの選手です。真弓が入団した時には太平洋クラブに変わっていましたから。“黒い霧事件”以降はいい選手が集まらない。設備も環境的にも厳しかったですね。選手の寮では、8畳の部屋に若手選手が4人で寝ていましたから」
若菜はプロ2年目の1973年にアメリカ1Aのローダイ・ライオンズで修行を積んだあと、1974年に一軍デビューを果たした。
「年俸が低かったし、シーズン中しかお金がもらえなかったので、シーズンオフにはアルバイトをしていました。先輩の加藤博一さんはバーテンをしたり、歌ったりしていたようです。僕は郵便局で仕分けをしたり、中洲の酒屋でお酒を運んだり」
シーズンが終わったら、本拠地の平和台球場は使えなかった。

