箱根駅伝PRESSBACK NUMBER
3000m障害の専門家は、なぜ“箱根駅伝MVP”になれたのか? 篠藤淳に聞く“伝説の区間記録”が生まれるまで「三が日はドラゴンボールを見ていた(笑)」
text by

杉園昌之Masayuki Sugizono
photograph byYUTAKA/AFLO SPORT
posted2026/01/08 11:10
2006年7月2日、日本選手権3000m障害で初優勝を果たした篠藤淳(中央学院大学/当時)。日本選手権5連覇中の王者・岩水嘉孝を破っての戴冠だった
「『日本代表になるから』と言われたのですが、駅伝シーズンが深まっていく時期にサンショーに取り組むのは考えられなくて、即答しました。『箱根駅伝に集中したいので、アジア大会は辞退させていただきます』。僕のなかの優先順位は箱根が1番、サンショーは2番以下でした。アジア大会は実業団に進んでからでも狙えますから」
瀬古から自身の経験をもとに駅伝との両立を提案され、中央学院大の川崎勇二監督に「アジア大会に出てもいいんやぞ」と促されても、固い意志は揺るがなかった。3年生ながら副将を務めており、チームへの思いもあった。目標を仲間と共有し、練習を積んでいくのが唯一の選択肢。すでに頭の中は八ヶ岳の夏合宿に向いていた。3000m障害を軽んじていたわけではない。襷リレーへの思いが、それほどまでに強かったのだ。
「1月2日、3日はドラゴンボールを見ていた(笑)」
ただ、217.9km(当時)を10人で駆け抜けるレースに取り憑かれたのは大学に入ってからである。本格的に陸上を始めたのは、神戸市内の舞子中学校時代。古豪の飾磨工業高校では個人種目の3000m障害でインターハイに出場し、チームの準エースとして県駅伝も走っていたものの、箱根への興味はほとんどなかったという。
ADVERTISEMENT
「正直、中央学院大に勧誘される高校3年生までは、テレビで見たこともなかったくらいです。1月2日、3日は裏番組で放送していた『ドラゴンボールZ』を見ていたので(笑)。進路は関西の大学も選択肢にありましたし、どうしても箱根路を走りたいという感じではなくて……」
それでも、川崎監督の口説き文句に心を動かされた。紫のランニングシャツとフラッシュイエローと言われる黄色の短パンには抵抗を覚えたが、中央学院大に来れば、当時、敵わなかった同期のエースよりも強くしてやると力強く言われて上京を決断。春先に入寮すると、さっそく千葉県我孫子市内の練習場でトラックをひたすら走らされた。すると、あっという間に3000m障害の自己ベストを更新。春から夏まではトラックで脚をつくっていたおかげか、夏合宿にもスムーズに入れた。個人種目と駅伝の両立で苦労した感覚はない。
「長い距離に慣れるまでに時間を少し要しましたけど、駅伝でも走れるくらいまで、川崎監督にうまく持っていってもらったと思います」

