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「藤井聡太は5期でA級だが」名人経験者でも昇級に苦しみ…順位戦の“シビアな世界”「単年の不調では死活問題」だからこそできた降級点制度

posted2025/08/14 11:00

 
「藤井聡太は5期でA級だが」名人経験者でも昇級に苦しみ…順位戦の“シビアな世界”「単年の不調では死活問題」だからこそできた降級点制度<Number Web> photograph by Keiji Ishikawa

2023年、名人獲得時の藤井聡太七冠。順位戦は5期でA級に到達した

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田丸昇

田丸昇Noboru Tamaru

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Keiji Ishikawa

 プロ棋界の根幹となっているのが「順位戦」制度である。本来は名人戦の予選リーグに当たるが、ほかのタイトル戦との垣根を越えて、棋戦への出場基準、棋士の昇段、対局料、棋士生命などで、大きな影響力を及ぼしている。戦後まもない頃に創設された背景、昇級・降級規定の移り変わり、順位戦で連続昇級して躍進した若手精鋭、C級2組降級にともなう引退、奨励会の四段昇段規定、閉会が午前4時に延びた1974年の将棋連盟総会などについて、田丸昇九段が解説する。【棋士の肩書、年齢はいずれも当時/全2回の1回目】

“実力本位の制度”導入は戦後まもない時期だった

 終戦からまもない1945(昭和20)年11月。応召徴用や疎開で国内外に散らばっていた棋士たちが集まり、東京・目黒の将棋大成会(日本将棋連盟の前身)仮本部で臨時総会を開いた。

 将棋界の再興を図る趣旨の席上で、時の第一人者の木村義雄名人(当時40)が重大なことを提案した。段位を主体とした従来の制度を廃止し、実力本位の制度を導入するものだった。

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 戦前の制度は段位に絶対的な重みがあり、棋士の待遇はそれに準じた。しかし年数がたつにつれて、最高位の八段同士でかなりの実力差が生じたり、四、五段が八段に連勝することもあった。

 木村名人の提案をめぐって、棋士たちは総会で活発に議論したが、基本的に承認された。その後、委員会で話し合いを重ねた結果、新しい制度が発足した。それがABCのクラスで区分し、現在に連なる「順位戦」制度である。

 第1期順位戦は1946年5月に始まり、当初はA級(八段)、B級(七、六段)、C級(五、四段)と段位でクラス分けした。ただし以降の年度の成績によっては、八段でもAからB、Cに陥落し、四段でもCからB、Aに昇格するという仕組みだった。第1期はA級で塚田正夫八段(32)が優勝し、47年の名人戦で木村名人を4勝2敗で破って新名人に就いた。B級では升田幸三七段(28)が1位でA級に昇級。升田の弟弟子の大山康晴六段(23)も好成績で2位。C級で1位の丸田祐三四段(27)は、翌期に三段跳びで七段に昇段した。

死活問題だけに設けられた「降級点」制度

 それにしても、このような実力本位の大改革が半年でよく実現したものである。

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