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ボクシングPRESSBACK NUMBER
「衰えただの、ピーク過ぎただの…」井上尚弥本人も感じていた“アフマダリエフ戦前の異様な空気”のナゾ…限界説を覆した完勝のウラに「敗者の誤算」
text by

曹宇鉉Uhyon Cho
photograph byHiroaki Finito Yamaguchi
posted2025/09/17 17:02
9月14日、「最大の強敵」と言われたアフマダリエフに勝利した井上尚弥
アフマダリエフの誤算
井上のフットワークは中盤からさらに加速する。「来い、来い」と挑発を受けても、特段の反応を示すことはない。9ラウンドにはロープを背にした状態でカウンターのショートアッパーをヒットさせ、アフマダリエフの頭を跳ね上げる。大橋秀行会長が言うように「怖さ」のある相手とはいえ、ここから逆転されるイメージはもはや思い浮かばない。
11ラウンド終了後のインターバル。モニターに映し出されたアフマダリエフの顔からは、前日まで宿っていた自信や勝利への意志が完全に失われていた。ほとんど何もできないまま試合が終わってしまうことを、なかば受け入れているかのような表情だった。最終ラウンド、拍子木が打ち鳴らされた直後にようやくヒットした右フックも、スコアシートの最下段に記された3つの「10」も、敗者の慰めにはならなかった。
大差の判定で井上の勝利がコールされた瞬間、忘却の彼方にあった試合前の不安の味が蘇ってきた。アフマダリエフ陣営の誤算は、同じチームのラモン・カルデナスが奪ったダウンという成功体験を踏まえて、井上を打ち合いに巻き込む前提で戦略を立てていたことだろう。おそらくその想定は、ファンやメディアが試合前に抱いていた不安と重なり合っていた。だが、カルデナス戦で教訓を得た井上のアウトボクシングは、想像のはるか上を飛び越えていった。
呆れてしまうほど美しいままの顔
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ふと、東京新聞の森合正範記者に「Number Web」で執筆してもらった林田太郎氏のインタビューを思い出した。アマチュア時代の井上と3度対戦し1勝2敗の戦績を残した林田氏は、記事のなかでこう証言している。
「尚弥って本質的にはファイターで、ガーッと攻める。パンチのパワーが一番の魅力だと思う。だけど、今までずっとアウトボクシングをやってきた選手と同じ完成度なんです」
プレスルームへと向かう道すがら、森合記者に声をかけた。『怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ』(講談社)の著者は「本当に素晴らしかったですね。このボクシングが見たかったんですよ」と興奮気味に述べたあと、喜びと苦悩がないまぜになった言葉を口にした。
「このすごさ、伝わるかなぁ……」
試合後の会見で、アフマダリエフ陣営のトレーナーであるアントニオ・ディアスは「いいパンチをもらったが、ダメージはなかった」と強調した。もちろん、この発言を額面通りに受け取るわけではない。ただ、深手を負っていたようには見えないアフマダリエフにわずかなチャンスさえ与えなかったことは、むしろ井上のアウトボクシングの完成度の高さを裏付けているようにも感じられた。
失意のアフマダリエフ陣営と入れ替わるように、井上が会見場に現れた。自ら「最大の強敵」と見定めた相手との戦いを終えたばかりの顔は、額のあたりに薄いアザが認められるのみで、呆れてしまうほど美しいままだった。


