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「戦力外もよぎった…こうして終わるんだ」“阪神あの逆指名ドラ1”の運命を変えた、タイガース退団の真相「今だから言える」藤田太陽の苦労人生
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佐藤春佳Haruka Sato
photograph byNumberWeb
posted2025/08/30 11:03
現在はロキテクノ富山の監督を務める藤田太陽氏
2007年以降は、それまでの上手投げからスリークオーター、さらにサイドスローへと投球フォームを改造。他の投手との違いを何とかアピールしようと試行錯誤した。
「一軍の右投手はほぼ全員が上投げだったんです。だから、みんなと違うことをやればもう一度、自分にもチャンスが来るんじゃないかと。サイドでも150km出ていたこともあって、そこに活路を見出そうとしました。色々な葛藤がありました。『なんでチャンスをもらえないんだよ』という悔しい気持ちもありながら、片一方の自分は『いや、もう実力ないじゃん』って思っている。今思えば、上手くいかないことを自分で認められず、何とか虚勢を張っているような精神状態でした」
復活のきっかけは、阪神からの移籍だった
負のスパイラルを断ち切ったのは、環境の変化だった。2009年7月11日、西武・水田圭介内野手との交換トレードが決まった。2001年の入団から、阪神での8年半は通算5勝。後がないのは分かっていた。移籍会見で右腕はこんな言葉を残した。
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「いい思い出はほとんどない。とにかく苦しかったです。人生の大逆転というか、ここから10年やるつもりで頑張る」
退路を断ち向かった新天地で、西武・渡辺久信監督からは「阪神で燻っていた気持ちを思いっきりぶつけて解放してくれ」と肩を叩かれた。「失敗してもいいから思い切りやってくれ。ちょっとやそっとの失敗では代えないから」。そんな指揮官の言葉に、何かが吹っ切れた。
「2007年に阪神のファームで投げていた時からずっと見ていた、という言葉もかけてもらって、すごく意気に感じたんです。地道にやってきて、見てくれていた人がいたんだなと嬉しくて。この頃、手術をした肘の状態もすごく良くて、やっと何かが開けてきた手応えがあった。阪神時代は、とにかく失敗しないように、と縮こまっていたけれど、移籍してからは打たれてもそれが何故なのか研究していくというトライアンドエラーに集中できた。当時の西武は若い選手が多くて、みんな個性的だったのも僕にとってはやりやすかったのだと思います」
移籍後はリリーフとして2カ月半で25試合に登板し、防御率2.00。翌2010年には、開幕から勝利の方程式の一角を担い、自己最多となる48試合に登板し19ホールドを記録した。
「やっぱり関西は阪神タイガース中心の街なんですよ」
8年半の阪神時代は登板46試合、5勝9敗に終わった右腕は、西武とその後所属したヤクルトを含めた4年半で110試合に登板し、8勝5敗4セーブ24ホールド。キャリア後半にしっかりと花を咲かせて、2013年限りでNPBでのキャリアに終止符を打った。


