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「戦力外もよぎった…こうして終わるんだ」“阪神あの逆指名ドラ1”の運命を変えた、タイガース退団の真相「今だから言える」藤田太陽の苦労人生
posted2025/08/30 11:03
現在はロキテクノ富山の監督を務める藤田太陽氏
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佐藤春佳Haruka Sato
photograph by
NumberWeb
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プロ3年目の2003年にトミー・ジョン手術を受けた右肘が回復し、05年春には約2年ぶりとなる復活白星を挙げた藤田さん。しかし、誰もが期待を寄せるドラ1右腕の歩みは、その後も楽なものではなかった。
打たれて二軍落ち。再び調子を上げて一軍に戻ってはまた打たれる、という繰り返しで、なかなか先発ローテーションに定着できない。いわゆる“エレベーター選手”として、不完全燃焼の思いを常に溜め込んでいた。
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「二軍で無双状態でも、一軍に上がるとうまく結果が出ない。今思えばメンタルの面がすごく大きかったと思います。結果を出さなければ明日は二軍だ、という恐怖心を抱えていて、負のループにハマっていました」
「ああ…自分はこうして終わっていくんだ」
2005年の終盤からはリリーフとして一軍定着を狙ったが、この時期の阪神のブルペン陣はかつてないほどに層が厚かった。岡田彰布監督のもと、ジェフ・ウィリアムス、藤川球児、久保田智之という三本柱の勝利の方程式「JFK」が躍動。さらに「SHE」と言われた桟原将司、橋本健太郎、江草仁貴らも控える鉄壁なリリーフ陣は、2年ぶり9度目の優勝の大きな原動力となった。
「どこにも入る隙がない。ああ、自分はこうして終わっていくんだ、と感じていました。秋が近づくと戦力外もよぎった。ただ、万が一クビになってもどこかで投げられる状態は絶対に作っておこうと思っていて、目の前のことに集中しようと必死に取り組んでいました」
若手時代に共に二軍で汗を流し、リハビリ期間も一緒だった藤川が、今や一軍のスター選手だった。投球フォームの改造がうまくはまり、05年は最優秀中継ぎ賞、06年以降は無敵の守護神としての地位を築き上げていた。
「それは球児が持っている素質であり技術である。僕は技術を持っていなかった。結局、その違いだと思うんです。もちろん、最初は悔しかったですよ。若手時代はライバルだと思っていた球児が、全然手が届かないところに行ってしまった。球児は一軍、こっちは二軍のクローザー。でも、それは納得していました。投げる球質や精度、頭の中も違いすぎると分かっていましたから」

