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甲子園の風BACK NUMBER
松坂大輔は「現実離れしたアニメを見ている感覚」日大藤沢で“怪物”に3度敗れた男・館山昌平の青春「中学までキャッチャー、目標はベンチ入り」
text by

二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph bySANKEI SHIMBUN(L)/Hideki Sugiyama(R)
posted2025/08/28 11:01
日大藤沢高時代の館山(左)は横浜高と松坂(右)の壁に阻まれ、甲子園出場はセンバツの一度だけだった
2年生の秋になると、館山はベンチ入りどころかエースに昇りつめる。
1997年10月、秋季神奈川県大会は決勝まで勝ち進み、待っていたのが松坂のいる横浜であった。イメージしていたものより格段に、いや圧倒的に凄かった。
これが同じ高校生か
「通学で小田急線を使っていたんですけど、小田急線の駅を新幹線が通過していくような感じなんですよ。これが同じ高校生かと思ったし、打席に立つと背中から斜めにドーンとボールが来るような軌道で怖かった。衝撃的すぎましたね」
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館山は序盤に横浜打線につかまり、途中でマウンドを譲った。終わってみれば0-9の完敗。松坂の前に打線も沈黙せざるを得なかった。
「試合に負けたら、バスのなかであそこはこうすれば良かったんじゃないかとか、みんなで意見交換するのが普通。でもこのときばかりはシーンとしていて、運転手さんに『お前ら悔しくないのか?』と言われたんですけど、みんな放心状態でした」
レベルの違いを見せつけられたとはいえ、ニチフジの辞書に「強いから勝つ」はなく、あるのは「勝ったほうが強い」。翌日からは気持ちを切り替えて、“移り変わる状況判断と個人プレーの結集”を高めていこうとする。
その成果が表れたのが1カ月後の、センバツ出場権を懸けた秋季関東大会だった。決勝で再び横浜と顔を合わせ、今度は9回まで1-1と粘りを見せる。この日10回表にリリーフした館山はスクイズで1点を勝ち越されて、結果は準優勝に終わったものの、チームの成長を示すことはできた。
センバツで名を挙げる
実はこの頃には松坂とも普通に会話をする間柄になり、得意とするスライダーの握りを教えてもらっている。ピッチングに対する探究者という立場は同じであり、松坂の足の使い方なども参考にした。
そして、松坂と横浜の陰に隠れていた日大藤沢の名が、翌春のセンバツでとどろくことになる。木谷寿巳のいる近江(滋賀)、松下克也のいる豊田西(愛知)、矢野修平のいる高鍋(宮崎)と、大会注目の好投手を擁するチームに次々競り勝ち、ベスト4まで進んだのだ。

