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甲子園の風BACK NUMBER
松坂大輔は「現実離れしたアニメを見ている感覚」日大藤沢で“怪物”に3度敗れた男・館山昌平の青春「中学までキャッチャー、目標はベンチ入り」
text by

二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph bySANKEI SHIMBUN(L)/Hideki Sugiyama(R)
posted2025/08/28 11:01
日大藤沢高時代の館山(左)は横浜高と松坂(右)の壁に阻まれ、甲子園出場はセンバツの一度だけだった
公式戦で3度戦っていても、どこか“別世界”と捉えていた。身近なチームが偉業を達成したところで、館山の感情を特に刺激することもなかった。投手レベルにおいて、自分と松坂には遥かな距離があり、そこにたどり着けるとも考えていなかったからである。
キャッチャーだった中学時代
館山は中学まで主にキャッチャーを務めていた。
県大会にも出場できず、地元の進学校に進むことを考えていた。そんな折、夏の甲子園にも出場した日大藤沢の鈴木博識監督(当時)から「ウチでピッチャーをやってみないか」と誘いの声を掛けられる。
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「投げるモーションの大きいキャッチャーでしたけど、ちゃんと連動性はありました。おそらく肩関節の柔らかさを(監督は)見てくれたんじゃないかと思います。ほかの強豪校からキャッチャーで来ないかというのはありましたが、ピッチャーはニチフジだけ。この人、何言ってんだろうと最初は思いましたよ(笑)」
未開拓のピッチャーなら伸びしろがあるはず。ただ、目標は「3年間で一度はベンチに入る」。100人いる部員のなかで、本格的なピッチャー経験のない自分がエースになるという目標を立てることは、あまりにも現実味がなかった。1年生の夏、二軍戦で1イニングを抑えただけで喜んでいたほどだ。
ちょうどそのころ、横浜に140kmを投げる凄い1年生ピッチャーがいるというウワサが館山の耳にも入っていた。館山の球速はまだ「120kmそこそこ」だった。
ノートに毎日100カ条を書き込んだ
ニチフジの気風も館山には合っていた。入学してから5月まで、監督が心得をまとめた「野球とは移り変わる状況判断と個人プレーの結集」から始まる100カ条を毎日ノートに書き込むのが、新入部員の決まりだった。気がつくこと、考えたことがあれば書き込むクセがつき、観察眼も養われていく。自分に合った投球フォームを試していき、制球力も上がった。

