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“熱心すぎるファンクラブ”までいた千葉の盟主が20年甲子園から遠ざかり…「あの江川卓に勝利」「篠塚利夫を擁して優勝」した公立校・銚子商高の今 

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内田勝治

内田勝治Katsuharu Uchida

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posted2025/08/22 11:02

“熱心すぎるファンクラブ”までいた千葉の盟主が20年甲子園から遠ざかり…「あの江川卓に勝利」「篠塚利夫を擁して優勝」した公立校・銚子商高の今<Number Web> photograph by JIJI PRESS

1974年夏には悲願の甲子園優勝。翌年は同じ千葉の習志野高が優勝した。同都道府県が異なる学校で連続優勝したことは過去4例しかない

甲子園出場回数は千葉県最多、1974年には優勝も

 甲子園出場は県内最多の20回(春8、夏12)。2位習志野高の13回(春4、夏9)を大きく引き離している。1963年夏ベスト8、1965年夏準優勝で全国にその名を知らしめると、1973年夏、怪物と謳われた作新学院(栃木)・江川卓(巨人)との2回戦、延長12回押し出しサヨナラで勝利した雨中の死闘は、高校野球ファンの語り草だ。

 そして金属バットが導入された翌1974年夏、前年に江川と投げ合った土屋正勝(中日、ロッテ)、2年生4番篠塚利夫(巨人)らを擁し、初の全国制覇を達成。1976年夏は宇野勝(中日、ロッテ)を中心にベスト8、1995年春の選抜では澤井良輔(ロッテ)の活躍もあり準優勝に輝いた。黒潮打線が唸りを上げるたびに、アルプスを埋め尽くした色とりどりの大漁旗が浜風に乗って揺れた——。

後援会長の回想

 1965年夏。阿天坊(あてんぼう)俊明は、「3番遊撃」として、エース木樽正明(ロッテ)らとチームの主軸を担い、県勢初の甲子園決勝進出、準優勝を成し遂げた。同年の第1回ドラフトでは南海(現ソフトバンク)から2位指名を受けるも入団を拒否。立教大、新日鉄室蘭で活躍したのち、郷里の銚子市に戻り、77歳になった今も後援会長として50年近く野球部を支え続けている。

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「私が高3になる時に校舎とグラウンドが今の場所に移転して、すぐに甲子園で準優勝しました。試合があると、銚子の街は誰も出歩かなくなります。ほかに娯楽もなかったので、みんながテレビやラジオで銚子商を応援するような時代でした。

 グラウンドは上から見下ろせる場所にあるので、ファンからよく見えるんです。だから誰も練習中にダラダラできません。よく罵声が飛んできたものです。監督やコーチは本当に楽だったと思いますよ」

【次ページ】 ライバル・習志野高に敗れると「土手クラブ」が……

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