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「野球を辞めてゴルファーになろうと」牛島和彦”史上最大のトレード”拒否に兄貴分・星野仙一が深夜の説得も…「気持ちは全然固まらなかった」 

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赤坂英一

赤坂英一Eiichi Akasaka

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posted2025/08/05 11:11

「野球を辞めてゴルファーになろうと」牛島和彦”史上最大のトレード”拒否に兄貴分・星野仙一が深夜の説得も…「気持ちは全然固まらなかった」<Number Web> photograph by JIJI PRESS

「ネクタイを締めて来い」と牛島(右)を自宅に呼び、深夜の説得に臨んだ星野(左)。牛島の心は揺れ動いていた

 それが、86年12月24日、クリスマスイヴの夜のことである。ちなみに、牛島の推定年俸はこの年3240万円だった。

 そして、翌25日、牛島は翌87年から監督に就任する星野仙一(当時39)から電話をもらい、自宅に呼ばれる。「俺はネクタイを締めて待っているから、おまえもネクタイを締めてこい」と。

星野仙一の説得

「夜中でしたね。午前2時くらいやったと思います。どんな話をされたか、詳しい内容はもう記憶から飛んじゃってるけど、3つくらいのパターンに分けて説得されたのは覚えています。

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 つまり、先輩・星野仙一としての話はこうだ、同じ投手としての気持ちはこうだ、そして、監督の考えとしてはこうだと、どれを聞いても納得できるんですよ。それはもう、ごもっともです、星野さんのおっしゃる通りですと」

 星野は亡くなる前、ロッテ側に牛島を指名されたことを明かしている。「先輩」としては牛島を出せないが、「監督」としては出さなければならなかった。先に落合獲得に乗り出していた巨人に取られてしまうからだ、というのが星野の言い分である。

気持ちはまだ固まらなかった

「ただ、僕は僕で、これからどうすればいいかと、そればっかり考えて、頭がいっぱいでした。これから先は、野球以外の好きなことをやるのもいいなと、そんなことを思いながら『はい、はい』って返事をしていましたね。星野さんの意見を聞いて態度を決めようとか、そんなふうには考えられなかった。

 話が終わったのが、明け方の4時頃かな。その日の昼に会見で自分の態度を表明することになっていた。星野さんには『じゃあ、明日発表します』とだけ言って、家を出ました。僕自身、その時もまだ、全然、気持ちは固まっていなかった」

【次ページ】 『割れる茶碗を買ってこい!』

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