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薬物疑惑、昭和の芸能界…ボクシング興行師の息子が“借金30億円”を背負った理由「亀田家とボクシングの品格を下げた」と批判された男の現在
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栗田シメイShimei Kurita
photograph byNumberWeb
posted2025/08/04 11:00
大阪・西成にある「TMKボクシングジム」で会長を務める金平桂一郎。今年11月で60歳となる
金平は1965年、協栄ボクシングジムの実質的な創始者である、父・正紀の長男として生を受ける。770グラムの未熟児でもあった。豪放な父は「ホステスにモテる」という理由で銀座や赤坂の呑み屋に“0歳”の息子を連れて出していた。ステーキ、スッポン、寿司など贅の限りを尽くした少年時代。そんな型破りな父から、口を酸っぱくして言われたのが「ボクシングほど割に合わない商売はない」という言葉であった。
父・正紀は広島・呉市の高校を中退後上京し、一代で協栄ジムを名門へとのしあげたボクシング界の立志伝中の人である。喧嘩自慢な男はボクサーとしては芽が出なかったが、アルバイトをしていた中華料理屋でとんかつ料理の技術を学び、恵比寿に「とん金」を開業する。そこで従業員として応募してきたのが、後にフライ級の世界王者になる海老原博幸だった。海老原と二人三脚で開始したボクシング活動の延長線上で、1959年に金平ジム、後の協栄ジムを開業する。以降、国内最多の8人の世界王者を育てあげた名伯楽となっていく。
プロモーターとして名を馳せた父
ジムの会長としての才覚よりも、一層際立ったのがプロモーターとしての手腕だった。後に主流となる、テレビ局から興行資金を引き出す源流を作ったのも正紀である。金平が手掛けた興行は視聴率も30%や40%台を続出させた。競技の垣根に関しても、柔軟な発想を持っていた。フェザー級の世界王者で甘いマスクから絶大な人気を誇った西城正三のキックボクシング興行まで仕掛けた。そして、その地位を決定的にしたのが、数十億円を支払い、1972年にモハメド・アリの初来日興行を手掛けたことだ。アリの来日から4年後には、交流が深かかったアントニオ猪木対アリの「世紀の一戦」にも関与している。
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「アリを日本に呼んだ男」
その実績は世界中で名刺代わりとなった。プロモーターとして生涯で100戦以上の世界タイトルマッチをまとめあげるが、息子・桂一郎いわく「アリ戦の投資がプロモーターとしての父の評価を確固たるものにした」という。
その反面、叩き上げで成り上がった父は、毀誉褒貶が激しい人でもあった。


