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「長嶋監督に泣いていると思われて」松本匡史と篠塚和典が語る巨人“地獄の伊東キャンプ”の本音…長嶋茂雄流の育成術とは「やってよかったと思うけど…」

posted2025/07/31 17:00

 
「長嶋監督に泣いていると思われて」松本匡史と篠塚和典が語る巨人“地獄の伊東キャンプ”の本音…長嶋茂雄流の育成術とは「やってよかったと思うけど…」<Number Web> photograph by SANKEI SHIMBUN

第一次監督時代の長嶋は、積極的にグラウンドに立って選手を直接指導した

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赤坂英一

赤坂英一Eiichi Akasaka

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SANKEI SHIMBUN

 '79年10月28日、伊東の地に18人の若手が集められた。V9時代を知らない彼らを長嶋は“シンデレラボーイ”と呼び、25日間の過酷な練習を課した。長嶋の育成術は「地獄の伊東キャンプ」にあると、当事者たちは語る。
 発売中のNumber1124号に掲載の[シンデレラボーイの回想]「1979 地獄で育まれた長嶋イズム」より内容を一部抜粋してお届けします。

“青い稲妻”松本匡史の回想

 長嶋茂雄が1979年秋に行った「地獄の伊東キャンプ」の代表的成功例のひとりが当時3年目、25歳の松本匡史である。右打者の松本に左打ちを習得させてスイッチヒッターに変身させ、二塁手から外野手へコンバート。おかげで'82、'83年に2年連続盗塁王のタイトルを獲得し、「青い稲妻」と異名を取った松本自身が振り返る。

「伊東キャンプがなかったら、その後の私はあり得ません。あれだけ辛抱強く厳しい練習を続けられたのは、長嶋さんがずっと一緒になって教えてくださったからです」

 伊東キャンプ18人のメンバーに入った時はまさかと思った。早大時代に7回以上経験した左肩の脱臼癖に苦しみ、巨人でも3回ほど脱臼で離脱。3年目の'79年に腰の骨を肩に移植する手術も受け、長嶋が俊足に惚れ込んで入団させた韋駄天が歩行すらままならない。俺も終わりかと諦めかけていた矢先、伊東に連れて行かれたのだ。

長嶋「だから、とにかくゴロを打ちなさい」

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 長嶋によるマンツーマンの練習は、早くもキャンプ初日の朝から始まった。

「起床時間の朝7時頃、宿舎の窓からグラウンドを見たら、長嶋さんが打撃ケージの前に立ってるんです。背番号90のユニフォームを着て。そんな時間から練習するなんて、前日には一言も言っていないのに」

 打撃マシンから放たれる球に対し、「上から真っ直ぐにバットを振り下ろせ!」と長嶋は繰り返した。「ホームベースに球を叩きつけて高くバウンドさせるんだ!」と、松本に何度もこう言って聞かせた。

「左打ちは右打ちよりも一塁が近くなる。だから、とにかくゴロを打ちなさい、ゴロを。みんなと同じように普通に前へ打つんじゃなく、下にゴロを転がして一塁へ駆け込むんだ。相手の野手との競走だから」

 長嶋は指導する際、身振り手振りの実演に加え、独特の擬音を混ぜた“長嶋語”を使う。一般の感覚ではわかりづらいが、「私には理解できました」と松本は言う。

「普通の指導者が『強く』『速く』と言うところを、長嶋さんは『ダーン!』『ギャッ!』『グワッ!』と表現する。打撃フォームを教える時は、後ろから私の腰を両手でつかんで『グッと回せ、グイッと回せ』と言いながら、腰を回してくれるんですよ。その力強い一声一声から、長嶋さん独特の感性やイメージが伝わってきました」

【次ページ】 猛練習をやりぬかないと解雇されるという覚悟

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