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「変なプライドは邪魔になるだけ」ウルフアロン29歳“プロレス挑戦”の本気度は?「木村政彦から小川直也まで」柔道家のプロレス転向“成功と失敗の歴史”
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原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2025/06/28 17:00
新日本プロレスに入団したウルフアロン。来年1月4日、東京ドームでデビューする
「しゃべるのも好きだし、体を動かして表現することもすべてを表に出したい、さらけ出したい気持ちが強い。今はまだ、花道を歩いた後に試合ができる状態じゃないなあ。歩くときは試合ができるときです」
すでにちょっとした“因縁”も芽生えている。
「2年ぐらい前にグレート-O-カーン選手に『かわいがってやる』みたいな投稿をされまして、どういうふうにかわいがるのかな、というふうには思っていますけど(笑)。すいません、怒られちゃいそうです」
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新日本にはボルチン・オレッグというレスリングから来たカザフスタン出身の猛者もいる。
「やっぱりオレッグ選手の体を間近で見ると、まだまだ太刀打ちできないなと思いましたので、しっかりと体を作り上げなきゃなと思いました」
古くは木村政彦も…「柔道家のプロレス転向」成功例は?
力道山の時代までさかのぼれば、柔道家からプロレスのリングに足を踏み入れた選手には「プロ柔道」の興行も行った木村政彦、山口利夫、遠藤幸吉らがいた。その後は明治大学から旭化成に進み、1965年に柔道日本一になった坂口征二の日本プロレス入り(1967年)はインパクトがあった。
柔道部のOBたちが坂口のプロレス転向を阻止するため、姿を消した坂口を見つけ出そうと躍起だったという話を聞いたこともある。
日本柔道は1964年の東京五輪でアントン・ヘーシンクに敗れた。坂口はそのヘーシンクを倒すことを目標にしていたが、ヘーシンクは国際試合の表舞台に出てくることがなくなり、さらにメキシコ五輪の種目から柔道が外されたことも、坂口が日本プロレスに進んだ一つの理由だった。
1970年代の終わりに本人が知らないところで新日本プロレスとNET(テレビ朝日)が話を進めていた山下泰裕の新日本プロレス入りは壊れてしまったが、もし決まっていたら大きな話題になっただろう。
海外の柔道家で、しかも日本と関係のあった大物と言えば、オランダのウィレム・ルスカだ。
ルスカは1972年のミュンヘン五輪で無差別と重量級で2つも金メダルを取って、1976年のアントニオ猪木との格闘技戦をきっかけに新日本プロレスに入った。あの時代にアルティメットなどのプロ格闘技があったら、ルスカの格好の活躍場所だったのではないか。均整の取れた肉体、その強さは本物だったが、それがプロレスで生かされることはなかった。
ルスカを追うように日本テレビはヘーシンクを全日本プロレスに招いたが、こちらは動きがたどたどしくて、ファンからも見放され評価を得ることはできなかった。
ジャイアント馬場はヘーシンクについて「裸じゃ何もできないな」と嘆いたという。



