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じつは“非情な監督”長嶋茂雄は巨人退任時「もう一人の長嶋を作りたい」と嘆いた…「わがままは許されない」超一流バッターでも送りバント
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NumberWeb編集部Sports Graphic Number Web
photograph byKazuaki Nishiyama
posted2025/06/08 06:00
監督・長嶋茂雄の言葉をひもとくと「明るいスーパースター」以外の素顔も見えてくる
2003年11月のアジア予選では、中国、チャイニーズタイペイ、韓国に危なげなく勝利し、五輪出場を決めた。当時のメンバーは宮本慎也キャプテンの元、松坂大輔に上原浩治、城島健司や谷繁元信に小笠原道大、福留孝介に和田一浩、高橋と当時の超一流メンバーが揃ったわけだが――予選前、長嶋監督は「わがままは許されない」と語っていた。
実際の采配もその通りだった。広島のエースで先発起用が主だった黒田博樹をリリーフで送り出し、トリプルスリーを達成するなど攻撃的リードオフマンだった西武の松井稼頭央にも送りバントのサインを出し(巨人監督時代には清原和博にも犠打を命じている)、勝利への執念を見せたのだった。
川上さんがそうだったように…非情な人間に
<名言3>
川上(哲治)さんがそうだったように、監督はある意味、非情な別世界の人間にならなくちゃいけない。
(長嶋茂雄/Number964号 2018年10月25日発売)
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◇解説◇
勝負に温情は不要だ。選手は道具であり、道具への温情は監督にとって捨て去るべき不要な感情である、と長嶋は説いた。
こう語った長嶋も、現役時代から“冷徹な監督”に憧れていたわけではない。引退後すぐに就任した第1次政権の時は川上が築いた確率野球をあえて手放し、チームを再編している。そこには、長嶋らしい“情”の部分があったという。
しかしそれは采配にもにじみ出て、75年シーズンは球団創設以来初、そして今も唯一のセ・リーグ最下位に終わっている。この屈辱を受けてオフには張本勲を補強するなど、翌年から「勝つ野球」にシフトしてリーグ連覇を達成したものの、その後は優勝から遠ざかり、80年に退任した。
最後のシーズンは「やっぱり長嶋を作りたいですよ。もう一人の長嶋を」と呟いたほど傷心していたという。
第2次政権が始まるのはそこから13年後の1993年。「沈黙というのも、一種の“行”ですよ」とは1983年に語っていた長嶋の言葉だが――第1次政権での失敗を糧に、非情さを持ち合わせた監督となり、リーグ優勝3回、日本一2回の結果を残した。
清原にバント、一茂に戦力外通告も
NumberWebが緊急特集にて監督・長嶋の足跡を振り返ったところ「清原にバント」「息子の長嶋一茂に自宅で戦力外通告」というエピソードもある。巨人の監督として歴代3位となる1034勝を挙げた土台には、スター性だけではない側面があった。〈長嶋さん追悼特集:つづく〉


