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藤井聡太は21歳で永世資格を獲得したが「大山康晴戦から12日後…山田道美、36歳の死」「羽生善治“七冠”が崩れた日」棋聖戦の死闘史
posted2025/05/31 11:01

text by

田丸昇Noboru Tamaru
photograph by
JIJI PRESS
棋聖戦(主催・産経新聞社)は63年前の1962(昭和37)年に、5番目のタイトル戦として創設された。今期で96期と多いのは、五番勝負が年2期制(6月~、12月~)だったことによる(第66期から年1期制)。また、挑戦者をリーグ戦ではなくトーナメントで決めたので、勢いがある若い棋士が台頭しやすい。棋聖戦で初タイトルを獲得した棋士は10人以上に及ぶ。過去の五番勝負での盤上ドラマやエピソードとは――。
棋聖戦でも強すぎた大山…升田は獲得ならず
1960年代半ばは、大山康晴名人がタイトルをほぼ独占し、宿命のライバルといわれた升田幸三九段らの挑戦を退けていた。その升田を熱烈に応援したのは、実業家で産経新聞社社長の水野成夫だった。
第1回で触れた通り、水野社長は升田のタイトル獲得を願って棋聖戦を1962年に創設した。タイトル戦で初の1日制・五番勝負で、持ち時間は各7時間(ほかのタイトル戦は2日制・七番勝負で、持ち時間は各10時間。現在の棋聖戦の持ち時間は各4時間)とした。体力面で大山に劣る升田の負担を軽減させるためだった。
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升田九段は第3期、第6期棋聖戦で大山棋聖に挑戦した。第6期(65年度前期)では升田(当時47歳、以下すべて同じ)は3勝2敗と追い込んだが、いずれも敗退する結果となった。
「棋聖戦は升田さんのために作ったんだから、タイトルを取ってくれ」
水野社長の念願は、かなうことはなかった。
第1期から第7期の棋聖戦で大山は7連覇した。第8期では二上達也八段(34)に奪取されたが、第9期に挑戦者になって二上から棋聖を奪還した。
《たどりきて未だ山麓》の名言が生まれた日
大山名人が無敵を誇っていた60年代半ば。山田道美八段は大山に敢然と立ち向かい、名人戦や王将戦で挑戦して大いに奮闘した。
山田八段は理論派の将棋で、振り飛車を武器としていた大山の打倒を宣言して序盤の研究に打ち込んだ。さらに親しい棋士と定期的に研究会を開き、若手棋士と「VS(1対1の実戦)」を行った。現代の棋士たちが取り入れている勉強法の先駆者だった。また、大山の終盤の強さを実感し、難解な詰将棋に取り組んで読みの力を鍛えた。
〈第10期:67年度前期〉
大山棋聖(44)に山田八段(33)が挑戦した。