革命前夜~1994年の近鉄バファローズBACK NUMBER
「何かあったのか、野茂?」「こんなの、考えられません」野茂英雄が激怒! “気遣いできるエース“阿波野秀幸が見た1994年の近鉄「衝撃の事件」
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喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byNaoya Sanuki
posted2025/05/16 11:00
1994年当時はエースの座を野茂英雄に譲っていた阿波野秀幸だったが、野茂のことを気遣い、手助けしていた
時代を彩ったトレンディエースたち
その阿波野とドラフト同期で、ライバルの一人が日本ハム・西崎幸広だ。こちらもルーキーイヤーの15勝を皮切りに5年連続2桁勝利。
西武・渡辺久信は、阿波野や西崎より1歳年下ながら、大卒の2人と違い群馬・前橋工からプロ入りしていたため、プロでのキャリアは3年先輩。86、88、90年に最多勝と、黄金期の西武を支えた大黒柱だった。
その渡辺のドラフト同期が、北海道・旭川工から阪急(現オリックス)の5位指名で入団した星野伸之で、130キロ台のストレートに、100キロを切る落差の大きいスローカーブといった“遅球”のコンビネーションで、87年から11年連続2桁勝利を挙げている。
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阿波野をはじめ、この4人の「トレンディエース」の共通点は、まず男前。スラッとしたスタイルの良さも、ファッションモデルと見間違うほど。そして、投手としても抜群の成績を残している。この人たち、どう考えてもモテる。年俸もようけもらって、ええなあ。若き日の“憧れのポイント”は、短絡的に、ついそうした要素ばかりが羨ましく映ってしまう。
憧れの“阿波野さん”の当時
スポーツ報道の世界を目指していた私にとって、当時の阿波野が放っていた爽やかな空気感と文句なしの活躍ぶりは何とも眩く、純粋に憧れた存在の一人だった。だから、1994年に初めて「猛牛番」になったとき、まず会えて一番嬉しかったのは、正直に言えば、トルネード・野茂英雄ではなく、あの“阿波野さん”だった。
ただ、当時8年目を迎えていた左腕が、かつての輝きを失いかけていた状態だったのも否定しがたい事実でもあった。2024年はセ・パ両リーグを通しても、年間の投球回数が200イニングを超えた投手が一人もいなかったのだが、阿波野はルーキーイヤーから3年連続で200イニング超、同4年間での投球回数は896回3分の1に達している。

