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「自信をなくしていたんです…」巨人伝説のエースが初めて語った「空白の3年間」自ら持ちかけた“野手転向”の真相〈斎藤雅樹インタビュー〉 

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鷲田康

鷲田康Yasushi Washida

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photograph byKYODO / Kiichi Matsumoto

posted2025/05/02 17:02

「自信をなくしていたんです…」巨人伝説のエースが初めて語った「空白の3年間」自ら持ちかけた“野手転向”の真相〈斎藤雅樹インタビュー〉<Number Web> photograph by KYODO / Kiichi Matsumoto

巨人入団間もない頃の斎藤雅樹。現在は解説者として活躍する

あっさり決まったサイドスロー転向

 その時の手応えを斎藤はこう語っている。

「肘を下げたというか、その場でちょっと腕を横ぶり気味に投げたんですね。で、横から投げてみて、自分では真っ直ぐはやっぱり今までの方が絶対にいっている感覚がありました。でもカーブが……」

 これまで見たこともないくらいに大きく曲がったのである。

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「じゃあカーブ行きます、って言って投げたら1球目からビューって。自分でも『おおっ、すげえ曲がるな』とびっくりしました」

 それが決め手となったのか、藤田監督の視察が終わると、斎藤のサイドスロー転向はあっさり決まった。

「まだこの時点では自分の中ではピッチャーとしていけるとか、一軍がどうのこうのなんて、そんな感覚は全くなかった。ただ言われたのは9月にイースタン・リーグの試合が(埼玉県の)大宮であって、その試合に埼玉県からドラフト1位で入った斎藤が投げるって宣伝するということ。だからそれまでにサイドで投げられるようにしとけって(笑)。それから2カ月間は毎日、木戸さん(美摸二軍投手コーチ)がつきっきりで、フォーム固めを手伝ってくれました」

ぶっつけ本番で向かったマウンド

 言われた通りに斎藤は2カ月でサイドスローのフォームを固めて、9月のイースタン・リーグ西武戦に先発した。その間はブルペンでのピッチングが続いて、ほとんどバッター相手に投げたことがなかったという。ほぼぶっつけ本番でのマウンドだった。

「7回くらいまで1点で抑えたんですね。それまではイースタンでも打たれてばかりだったのが、その時、初めてピッチャーらしい結果を出した訳です。それで本当に本格的にこの投げ方でいこうと決心がつきました」

 これが“平成の大エース”の最初の一歩だった。

 翌84年8月28日の大洋戦でリリーフとして一軍デビューを果たすと、自らサヨナラ安打を放ってプロ初勝利を飾った。この年、4勝を挙げた。恩師の藤田から王貞治に監督が代わった翌年の85年にはローテーションの一角を担ってチーム最多の12勝(4完封)をマーク、リリーフでも7セーブを挙げる大車輪の活躍を見せた。その後も実働18年間で20勝2回を含む2桁勝利を9度も記録している。しかし最終的な通算成績は180勝96敗(11セーブ)と、ついに200勝には届かなかった。

ブレーク後の「空白の3年間」

 実は斎藤には12勝した翌86年から3年間の低迷期があったのである。86年はかろうじて7勝を挙げているが、87年はどん底まで落ちて勝ち星は0。そして88年は6勝止まりだった。この間に10勝前後の成績をコンスタントに残していれば、軽く200勝はクリアしていたし、それだけの力はあったはずでもあった。

「基本的にはケガですね。肘とか足とか。86年はオープン戦で足をケガして、まあ前の年に2桁勝って、相手も研究してきたというのもあったかもしれません。ただ87年は完全に調子を落としてしまいました」

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