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「15歳プロ契約」天才少年・菊原志郎はなぜ“27歳で引退”したのか「早くラモスさん達と練習したい」“歓迎のけずり”も…読売クラブの英才教育とは?
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杉園昌之Masayuki Sugizono
photograph byHideki Sugiyama
posted2025/03/16 17:01

昨シーズン限りで松本山雅FCのアカデミーヘッドオブコーチングを退任した菊原志郎(55歳)。現役引退後は、育成の指導者としてキャリアを積んできた
めきめきと力をつけるなか、菊原少年はサッカーの魅力にどっぷりとはまっていく。初段の黒帯を取った空手よりも、横浜市の大会で自由形3位になった水泳よりも、心が躍ったのはピッチに立っているときだ。相手の裏にスルーパスを出したり、ドリブルで相手を抜いてゴールを決める楽しさは何物にも代え難いもの。自ずと力を入れる競技は絞られた。日本にプロリーグがなかった昭和の時代。モチベーションは、純粋な気持ちである。
「当時はプロを目指すなんて、そんな発想はなかったですね。最終的にサッカーが一番面白くて、一番夢中になっていたんです。うちの親は小学生までは自分に合うものを見つけるためにいろいろなことをやってごらん、という考えでしたので」
読売ユースB(U15)に上がると、小柄なドリブラーは手がつけられないようになる。学年の枠を一段も二段も飛び越え、1年生から最上級生の試合に出場。中学3年生の時期には高校年代の読売ユースA(U18)に引き上げられ、練習試合で大学生たちと渡り合っていた。
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夏にはジュニアユース(現U-15)日本代表に選出。全国屈指の強豪として名を馳せていた帝京高校からもスカウトされた。名将の古沼貞雄監督から熱心に誘われたが、首を縦に振らなかった。年代別日本代表のチームメイトで後にJリーグでも活躍した礒貝洋光、森山泰行ら9人が帝京に進学を決めるなか、菊原は読売クラブにこだわったのだ。
「正直、高校選手権への思いはなかったですね。それよりも、小学生の頃から見てきた読売クラブのトップチームに早く上がって、(与那城)ジョージさんやラモス(瑠偉)さんたちと一緒に練習したかったですし、試合にも出たかった。僕のなかでは、それが自然な流れでした」
タレント集団による“歓迎のけずり”
中学生最後の冬休み。冷たい風が吹くよみうりランドの練習場で、いつものように時間を忘れるくらい熱中してボールを蹴り続けた日の帰りだった。コーチから呼ばれ、唐突に告げられた。「明日からはトップチームの練習に行ってこい」。すぐ隣のトップチームのグラウンドは憧れの場所ではあったが、それほど大きな驚きはなかった。
「近いうちに、このときが来るような雰囲気がありました」
その翌日、胸を高鳴らせて日本リーグを連覇していた国内屈指のタレント軍団の中に飛び込んだ。面子は豪華そのもの。帰化前のラモスをはじめ、日本代表経験を持つ与那城ジョージ、加藤久、松木安太郎、都並敏史、戸塚哲也らが顔をそろえていた。昔を思い返すと、ふと頬が緩む。
「みんながすごく温かく迎え入れてくれました。もちろん、練習では手加減なし。歓迎の“けずり”ですよ。『大人の中でどこまでできるかな』って見られている感じでした。ラモスさんに『志郎に行け』と言われたディフェンシブハーフの森栄次さん(元浦和レッズレディース総監督)が容赦なくガツガツきてね。プレッシャーはめちゃくちゃ速いけど、ほぼファウル気味でした(笑)」
早熟の天才は本物だった。ユースを飛び越え、異例の飛び級でトップチームに昇格。日本サッカー史上最年少の15歳で契約を結ぶことになる。厳密に言えば、よみうりランドの社員契約になるが、サッカーでサラリーを得るという意味ではプロ契約と変わりはなかった。
ただ、問題が一つだけあった。
〈第2回に続く〉
