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「うわ、坂本やん」鮮烈甲子園デビューも“わずか6年”で戦力外通告…阪神ドラ1左腕に突きつけられた現実「その後は球団職員を1年で辞めて…」
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栗田シメイShimei Kurita
photograph byJIJI PRESS
posted2025/02/14 11:08

一軍初登板となった甲子園での巨人戦。勝ち星こそつかなかったが、活躍を予感させるピッチングだった(2015年)
プロ4年目の2018年には左肩のクリーニング手術を受け、シーズンのほとんどをリハビリに費やした。育成契約となり背番号が3桁となった2019年は、ファームで投げられるまでに復帰するが、納得できる水準には到底届かない。復帰を目指して身につけた投球術でかわすことは出来るが、力勝負では二軍の打者にすら弾き返された。
球団には内緒で痛み止め注射を打ち続けるなど、完治とはほど遠い状態。そんななかでも2020年は、1年間を通してファームのローテーションを守り、大竹耕太郎(当時ソフトバンク)とは防御率のタイトルを争った。しかし、一方で一軍クラスの打者にはまるで通用しない現実もあった。
1260日ぶりの一軍登板は、奇しくも衝撃的なデビュー戦と同じ巨人戦。場所も甲子園だった。最大の違いは“無敵感”すら覚えた5年前とは心象風景が全く異なっていたことだ。
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「今の自分のボールが通用するわけないと分かっていました。二軍でもバッターの打ち損じを待つような、何の魅力もない投球しかできなくなっていたので。根気強くホームベースを踏ませないという“ごまかす”ことしかできない状態でした」
1イニングを2失点。手厳しい聖地のファンすら唸らせた快速球は戻らず、いとも簡単に芯で捉えられた。2020年10月4日は、横山にとって大観衆の前でプレーした最後の日となった。
ドラフト1位がわずか6年で戦力外通告
翌11月、球団幹部から鳴尾浜で一通の封筒を受け取った。
「明日、ホテルに来て下さい」
横山は全てを悟った。
プロ6年間で9登板、3勝2敗。怪我を言えなかったという後悔はあったが、やれるだけのことはやったという自負もあった。プロ生活の大半は怪我との闘いだった。“阪神のドラフト1位”という重みは、当人にしか分かり得ないものもあったのだろう。ユニフォームを脱ぐという選択をした時、横山はこんな言葉をファンに向けた。
「野球では結果を出すことはできなかったですが、その取り組む過程に悔いは一切ありません」
当時26歳。引退後の進路は揺れに揺れた。叶えたい夢もあった。自分が納得して決めたことしかやらない性格。球団は「タイガースアカデミー ベースボールスクール」の専属コーチという仕事を打診し、これを受け入れた。待遇は良く、安定した収入もあった。家族を養う意味でも、これ以上ない条件にも思えた。
しかし、横山はわずか1年で恵まれた環境を自らの意志で手放すことを選択したのだった。
〈第3回に続く〉

