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「ずっとどんぶり勘定で…ガクっときた」J3に低迷“ぬるま湯クラブ”を69歳社長はどう変えたのか?「これじゃあ、絶対に上がれない」カターレ富山の挑戦
text by
宇都宮徹壱Tetsuichi Utsunomiya
photograph byTetsuichi Utsunomiya
posted2025/01/27 17:00
カターレ富山の左伴繁雄社長(69歳)。クラブの経営状態を刷新し、就任4年目でJ2昇格へと導いた
「われわれの仕事って、天候やチーム成績で、チケットやグッズの売上が変わるじゃないですか。スポンサー収入だって、そう。だから月ごとの予算管理が必要なんだけど、それをやらずに、ずっとどんぶり勘定でやってきたわけですよね」
この「どんぶり勘定」が、経営の停滞という“ぬるま湯”状態を常態化させていた。貧乏クラブの「経営難」とは、明らかに異なる課題を抱えていることを左伴は思い知ることとなる。
カターレ富山の主要株主には、北陸電力、YKK、インテック、北陸銀行、北日本新聞社といった、錚々たる社名が並ぶ。赤字を出さないよう「ドライブがかかる」ため、クラブの内部留保は常に1億円前後を確保。ただし、トップライン(営業収益)は据え置きという状態がつづき、それがJ3でくすぶる大きな要因となっていたのである。
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「就任当時の年商は5億5000万円で、強化費が2億1000万円。J2の平均と比べて3~4割くらい低かった。これじゃあ、絶対に上がれないですよ。内部留保を吐き出して、ハイジャンプでトップラインを上げていく必要がありました」
それから5年、2025年シーズンの年商は11億円、強化費は4億8000万円を計画するまでになった。就任当初から、いずれも2倍に引き上げたことになる。
マリノス時代の“ゴーンの指令”「残留できなければクビ」
「ぶっちゃけ、Jクラブの社長になりたくてなったわけではない。日産で(横浜F・マリノスへの)出向を命じられた時は『左遷か?』と思ったくらいで(笑)」
今でこそ、クラブ社長が天職となっている左伴だが、自ら望んでスポーツビジネスの世界に飛び込んだわけではない。学生時代は陸上競技(リレー)に打ち込んでいたものの、当初はサッカーに関する知識は皆無。「知っている選手は中村俊輔だけ。『松田直樹って誰? オフサイドって何?』って感じ」だったという。
日産の人事部門からの出向を命じたのは、当時社長だったカルロス・ゴーン。その理由について「お前はサッカーの知識こそないが、絶対に無駄なカネを使わないし、元アスリートだから現場も選手のメンタルもわかる」と、のちに当人に語ったという。
ゴーンの要求は絶対だった。1年目の2001年のミッションは「Stay J1. If not fired(J1に残留させろ。できなければクビ)」。この年の横浜FMは、ファーストステージで16チーム中15位と低迷。セカンドステージは10位となり、年間13位で何とかJ1残留を果たした。つづく2002年は「Within 3rd place. Keep budget(3位以内に入れ。ただし予算内で)」という、実にハードルの高い指令が下る。