甲子園の風BACK NUMBER
「監督は練習で自慢話をしている」「そんなこと僕らに言われても」からのリスタート…“かつての強豪”東洋大姫路が17年ぶり近畿大会復活Vのウラ話
posted2024/11/18 06:00
text by
沢井史Fumi Sawai
photograph by
Fumi Sawai
一塁ベンチ前でナインの歓声と同時に岡田龍生監督の胴上げが始まった。
決勝戦で智辯和歌山を5-1で退け、17年ぶりに秋の近畿大会を制した東洋大姫路。最速147キロ右腕のエース・阪下漣(2年)が全4試合に登板し、27回2/3を投げて失点はわずかに1。防御率は驚異の0.33をマークするなど抜群の安定感を見せた。「県大会より本当に安定していた」とエースを褒め称える岡田監督の乾いた声がさらに響く。
「古豪って呼ばれるのは……ねえ。今の子らは東洋大姫路が甲子園で勝ち上がっていたことなんて知らんのんちゃいますか」
夏の甲子園10年以上不出場…“古豪”になった東洋大姫路
77年夏の甲子園優勝を含め、春夏計6度、4強に進出するなど70年代から80年代にかけて兵庫県内では常勝軍団として知られた東洋大姫路。
春夏計20回の甲子園出場を誇る兵庫県の名門も、近年は22年センバツに復活出場は果たすも(初戦敗退)、その前の甲子園出場は11年にエースの原樹理(ヤクルト)を擁した夏までさかのぼる。最近は県内でも上位に進出する大会は減り、15年から19年の夏の大会は、序盤で公立高校を相手に不覚を取る試合も続いた。
そんな“古豪”の再建を託されたのがOBの岡田監督だ。
履正社では87年から監督となり、無名だった同校を屈指の強豪校に鍛え上げ、19年の夏の甲子園で初の全国制覇を果たしたことは記憶に新しい。22年4月から母校へ監督として戻ったが、指揮官がまず敢行したのは“意識改革”だった。
チームに漂っていたのは覇気の薄さ。
練習できびきびと動く雰囲気は、かつて在籍した時の空気感を感じたが、近年は付属の東洋大へ進むどころか大学で野球を続ける選手がほとんどいなかった。野球への執着心が薄れつつあった、いわば“後輩たち”に自身の経験を選手たちに話すことから始めた。
「履正社の時はバッティング練習でこんなことをしていたよとか、大阪桐蔭の選手はこんなことをしてプロを目指しているんやぞとか、過去の体験談をよく話していたんです。細かいことも含めて、色んなことを選手らの前で言いました」