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「打席に入るのが嫌になっていた」ロッテの“アジャ”井上晴哉が明かす「引退を決めたある出来事」「心残りはもう一度アジャコングさんと…」

posted2024/11/07 11:04

 
「打席に入るのが嫌になっていた」ロッテの“アジャ”井上晴哉が明かす「引退を決めたある出来事」「心残りはもう一度アジャコングさんと…」<Number Web> photograph by Chiba Lotte Marines

アジャコングの特大写真とともにポーズをとる井上晴哉

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梶原紀章(千葉ロッテ広報)

梶原紀章(千葉ロッテ広報)Noriaki Kajiwara

PROFILE

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Chiba Lotte Marines

「アジャ」の愛称でファンに親しまれた男が、今シーズン限りで惜しまれながらユニホームを脱いだ。井上晴哉内野手、35歳。プロに入る前、日本生命に所属していた時に「アジャコングに似ている」と周りから言われ、この愛称がついた。

中学時代のあだ名は…

 本人も気に入っていた。2013年のドラフト5位でマリーンズに指名された際も、契約後の記者会見で「コール ミー アジャ」と自ら呼びかけ、駆けつけたメディアの爆笑を誘った。その愛称は少しずつ、しかし、しっかりと浸透していく。今ではマリーンズファンの誰もがこの男を「アジャ井上」と呼んでいる。ひょうきんな性格と相まってファンに愛された選手だった。

 ちなみにではあるが、中学生の時のあだ名は「ボブ・サップ」である。日本で一世を風靡した総合格闘家だ。高校時代は「ミッチェル」。入学した際に3年生の先輩から命名された。こちらはホークス(当時はダイエー)に1年間だけ在籍をしていたケビン・ミッチェルが由来。メジャーリーグで234本塁打を放ち、95年に来日。ライオンズとの開幕戦、当時の西武球場で満塁本塁打の派手なデビューを記録するも1年で退団した伝説の助っ人だ。その他にもその怪力から、日本で277本塁打を記録したブーマー(・ウェルズ、阪急など)と呼ばれたこともある。日本人離れした巨漢とパワーが様々なスーパースターを連想させ、当時の仲間たちは次から次へとあだ名をつけた。

「アジャ引退」にSNS騒然

 その中でも「アジャ」は一番のお気に入り。社会人時代からプロまで一貫してこの愛称を貫き、そしてユニホームを脱いだ。井上はこう振り返る。

「ファンの方から『井上』と呼ばれるよりも『アジャ』と呼び掛けられる方がしっくりくるようになっていた。本当にたくさんの人に声をかけてもらった」

「アジャ井上引退」というニュースの見出しに、本家であるアジャコングがプロレスラーを引退するのではないかとSNS上を騒がせ、「あ、師匠に被害が……。すいません」と本気で申し訳なさそうにする一幕もあった。なお、アジャコングとは2019年12月に民放テレビのバラエティー番組で一度だけ共演している。その場で公式戦始球式の約束も取り付けたが、翌20年からコロナ禍となり白紙に。その後も井上が度重なるケガに見舞われ、無情にも本拠地ZOZOマリンスタジアムのグラウンドで再会することは出来なかった(ボブ・サップとはルーキーイヤーの14年4月2日にゲスト始球式で来場した際に対面が実現している)。

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