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「認めたくなかった…」“育ての親”が突然の自死、長与千種(59歳)の初告白…故・松永国松さんに告げられた「おまえのような選手には2度と…」
text by
伊藤雅奈子Kanako Ito
photograph byShiro Miyake
posted2024/09/22 11:04
クラッシュ・ギャルズで一世を風靡した長与千種。インタビューで故・松永国松さんへの思いを語った
会長の証言「国松はおまえのことになると必死だったぞ」
――「千種の試合は俺が裁く」と言って譲らなかった。それは、耳に入っていましたか。
長与 入ってましたよ。(試合が)つまんないとね、背中を叩いてくるんだよね。こっちがしてやったりって思うときもあって、あの人は髪の毛が少し長かったじゃない? その髪が汗でびっしょびしょになって、ポタポタ落ちて、シャツもぴったりくっついてる。それぐらいヒートさせたときは、「よっしゃ、やった!」と思った。お客さんと相手と試合してるだけじゃなくって、レフェリーとも試合してたから。
――そうなると、レフェリーもいい仕事をしたなと思えたでしょうね。
長与 だと思う。決して褒めてくれなかったけどね。唯一の褒め言葉が引退のときで、あれがすべてだと自分ではそう受け取ってる。ただ、(高司)会長いわく、「国松はおまえのことになると必死だったぞ」って、それは聞いたことがある。
――94年にGAEA JAPANを設立する前に、国松さんに相談したそうですが。
長与 相談というか、団体を創るという報告と、「(全女に)フリー選手として上がっていたKAORUが欲しいんだけど」って言ったら、「いいよ」と。そのときもまた、「この親父!」って思った瞬間があってね。「名プレイヤーは名選手を作れず」って言われたの。「ふーん。絶対後悔させてやるから」って言った。
――言った?
長与 言った。そしたらね、「そんなうまくいくもんじゃないと思っとけよ」って言われて、あー、興行敵になったのかなって思ったね。ずいぶんたってから、ある人から聞いたんだけど、「ほんとは俺のとこに置いときたかったのに、違う団体を作りやがって」って、飼い犬に手を噛まれた感じに思ってたみたい。いつだっけな、横浜アリーナで殿堂入りのセレモニーをやったとき。
「認めたくなかった」自死した国松さんへの本音
――全女の創立30周年記念大会(98年11月29日)で、千種さんは殿堂入りすると同時に、豊田真奈美さんを相手にAAAWシングル王座を初防衛しました。
長与 そのときだ。自分のほうから国松さんのところに行って、「あのさ、すげぇレスラーを作ったと思ったらいいよ」って言ったの。「あんたが胸を張っていいと思う。なぜかっていうと、こういうレスラーを作ったのはあんたなんだから、違う団体になったけど、胸を張っときなよ」って。そしたらまたニヤニヤしてたけど。それが最後かな。
――全女解散の4カ月後、国松さんは投身自殺をしました(05年8月)。いままで話すことがなかったと思いますが、千種さんの気持ちを聞かせてください。
長与 国ちゃんが亡くなったときは……。さすがに落ちたね。恩師で、絶対的な父親みたいな存在だったから。うん。……んー。(身を投げたのは)全女に来た外国人選手が宿泊する建物で、横にガソリンスタンドがあるんだよね。移動バスにガソリンを給油してるあいだに、みんなでそこに集合することがあって、そこに外国人選手たちがぞろぞろ出てきてバスに乗る、とかだったんだよね。(訃報を聞いたときに)ふっと思ったのは、「……そこかよ」。そこを選んだのかよって。
――……。
長与 あのころ、自分が何かをできたかっていったら、きっともう(国松さんのなかでは)その次元を超えてたと思う。自分が近くにいたらよかったのかって、自分で問いただしても、なんも変わってなかっただろうと思うし。認めたくなかったし。そのあとに会長が亡くなったでしょ(09年7月、間質性肺炎で死亡。享年73)。そこで動いたんだよね。自分が、ようやく。《インタビュー最終回に続く》
(撮影=三宅史郎)