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パリ五輪「自己ベストがメダルの松下知之だけ」惨敗の日本競泳をどう再建するか…「挨拶もできない選手がいた」アトランタからの再建に学べ
posted2024/08/23 11:00
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph by
Ryosuke Menju/JMPA
パリ五輪では、スポットを浴び注目を集めた競技がいくつもあった。その一方で、いつにないほど存在感が薄れた競技もある。そのひとつが競泳だ。これまでのオリンピックでは毎回、複数のメダルが期待され、注目を集めてきた。21世紀に入ってからでも、北島康介、柴田亜衣、萩野公介、さらには松田丈志、入江陵介ら多くの選手の活躍が記憶に残る。
だがパリでのメダルは、400m個人メドレーで松下知之が獲得した銀1個にとどまった。メダルもさることながら、深刻なのは決勝に進んだ選手が9人にとどまり、自己ベスト更新も松下一人のみであったことだ。仮に自己ベストならメダル圏内に達した種目は9つあった。また3月の五輪代表選考会での記録相当で泳げていれば、十数名が決勝に進めていたはずだ。選考会時の記録を上回ったのは松下、200m平泳ぎで4位入賞を果たした鈴木聡美らひと握りに限られる。
全体として本来の力を出せずパフォーマンスが低調であったこと、大会にピークを合わせられなかったことはチーム全体としての課題でもある。
惨敗からの再建という先例
競泳日本代表は8月6日に帰国したが、松下を指導する平井伯昌コーチが空港で取材に応じ、組織やコーチングの改革を訴えるとともに、それらを進めるにあたって、一人の名前を出したという。上野広治氏だ。今大会後、「アトランタ五輪以来の惨敗」という文字もしばしばメディアに躍るが、そのアトランタ後の再建の中心にいた人物である。かつて日本競泳が危機にあったとき、どう立て直しを図ったか、改めてたどりたい。
1996年のアトランタ五輪の日本競泳陣には、世界ランキング1位、2位などに位置する選手が多数いて、「史上最強」とも目されるほどだった。だが結果はメダルゼロ。大会前に寄せられた期待の大きさが裏返り、「惨敗」として大きな批判を浴びた。
そこから再建に成功する。2000年シドニー五輪で銀2、銅2の計4個、2004年のアテネでは金3、銀1、銅4の計8個のメダルを獲得。その後も「メダルを計算できる競技」という期待に応えてきた。
その“アトランタ後”の再建の中心を担ったのが、アトランタ五輪後にヘッドコーチに就任、2005年からは監督を務めた上野広治氏だった。