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「意識不明の重体…早朝のニュースを見て驚いた」赤井英和をぶっ倒したボクサーを待ち受けていた波乱万丈の人生「ファイトマネー35万円の代償」
text by
杉園昌之Masayuki Sugizono
photograph byBBM
posted2024/08/22 11:01
1985年2月5日、赤井英和をKOした大和田正春の左フック。「拳の感覚はいまも覚えている」
時計を見れば、明け方の5時だった。朝一番にテレビをつけるのは習慣である。すると、何気なくチャンネルを合わせた朝日放送で信じられないニュースを目にした。赤井が意識不明の重体で病院に緊急搬送され、生死にかかわる開頭手術を受けていたのだ。大和田は翌朝、衝撃の事実を初めて知ったという。
「大阪府立体育館を出るときに救急車が来ていたのは知っていましたが、まさか赤井さんが乗っているとは思わなくて。赤井さんの容体は気になりましたし、大変なことになったぞ、と思いました」
早朝、荻原トレーナーに誘われ、なんば駅の売店までスポーツ新聞を買いに走ったときも「外に出ても大丈夫ですかね」と心配したほど。関西のヒーローを病院送りにして、一夜明けたばかりである。試合前の痛烈なヤジを思えば、何を言われてもおかしくない。
右拳に湿布を貼り、周囲の目を気にしながら大阪の街を歩くと、「大和田や、大和田や」と名前を呼ぶ声や「強かったで」と褒めてくれる人までいる。あくまで、リング内で起きたこと。大和田を責め立てる者はなく、むしろ一躍有名ボクサーになっていた。手にした35万円のファイトマネーよりも名声のほうがはるかに大きかった。
大きすぎた赤井英和戦の代償
ただし、代償もあった。その後、赤井は奇跡的な回復を見せ、後遺症もなく、日常生活を送れるようになったが、プロボクサーの選手生命は絶たれることになった。
大和田は練習を再開しても、どうにも調子が上がらない。気にしないようにしていたが、ふとしたときに目の前の物が二重に見えることがあった。何よりボクシングに影響したのは、試合で骨が折れた右拳がなかなか完治せず、思い切りパンチが打てなかったのだ。
赤井戦から4カ月後の1985年6月。『浪速のロッキー』を倒した男としてマスコミに注目され、後楽園ホールのメインイベンターを務めたが、ノーランカーの飛鳥良にまさかの5回KO負けを喫した。
「試合になったら、あの場面がよみがえってきたんですよ。赤井さんのことはずっと心にあったから。相手に思い切り打ち込んでやろうと思えなくて。よけたところにパンチを打っていました。目の前のこの人を殴ると、また何かが起きるかもしれないって。自分の拳が壊れてしまう怖さもありましたし」
懐に入ったファイトマネーは赤井戦の2倍弱となる60万円。キャリア最高額の報酬を手にしたが、心はボクシングから離れた。