酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
「パリ五輪、野球を除外したIOC役員に怒りを」“83歳で現役スポーツ実況”島村俊治アナが語る五輪野球「アトランタは松中信彦の満塁弾で…」
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph byJIJI PRESS
posted2024/08/07 11:01
アトランタ五輪、キューバ戦での松中信彦。この一戦を実況した島村俊治氏に記憶を聞いた
小柄な吉田監督が、大男のフランスの選手の中に入って「ウイ、ウイ、ええでええで」とフランス語と関西弁の“ちゃんぽん”でコミュニケーションしていた映像が流れていたのを思い出す。
野球がオリンピックの競技となったのは1984年ロサンゼルス大会の時からだった。島村氏は当時についてこう回想する。
「ロサンゼルス大会では、野球はまだ公開競技でした。私は野球ではなく、主に水泳競技の中継を担当しました。競技が終わって、食事に行こうとリトル・トーキョーを歩いていたら、向こうの方に野球選手の一団がいた。どこのチームかな、と見ていると“島村さん勝ちましたよ、金メダルですよ!”と声をかけられた。
その声の人物は、野球日本代表の松永怜一さん(法政大学、住友金属などの監督を歴任。2007年野球殿堂入り)でした。初のオリンピックで日本は優勝したのです。当時は公開競技ということもあって、日本のメディアもあまり動いていませんでした。私たちもそれほど報道しなかったのですが、そんな中で松永さんが真っ黒に日焼けした顔で、あのだみ声で、私に声をかけてくれた。松永さんは高校野球などで何度もコンビを組んでいましたから、うれしかったですね」
このときの日本代表は、投手に伊東昭光(本田技研→ヤクルト)、伊藤敦規(福井工業大→熊谷組→阪急・オリックス、横浜、阪神)、内野手に正田耕三(新日鐵広畑→広島)、和田豊(日本大学→阪神)、広沢克己(明治大学→ヤクルト、巨人、阪神)、外野手に荒井幸雄(日本石油→ヤクルト、近鉄、横浜)、熊野輝光(日本楽器→阪急・オリックス、巨人)などの選手を擁し、予選リーグを2勝1敗で勝ち上がり、準決勝で台湾に2-1でサヨナラ勝ちし、決勝では広沢の3ランホームランなどで6-3でアメリカを下した。
アトランタ五輪決勝、アメリカ人からかけられた言葉
そこから12年後、1996年のアトランタオリンピックでは、野球は正式競技になっていた。この大会で、島村氏は決勝戦を担当した。
「当時はまだプロ選手が参加できなくて、アマチュアの時代でした。アマチュア野球ではキューバが圧倒的に強かった。キューバは金属バットを使ったものすごい打撃力で相手を圧倒していたのです。日本のアマチュア野球は、キューバを倒すことが大きな目標だったのですが、キューバの壁は厚かった。準決勝で日本はアメリカに11-2で大勝して、決勝に進みました。もう片方は予想通りキューバが勝ち上がってきました」
島村氏は、放送が始まる前から「しおれていた」という。