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なぜ岡田彰布18歳は高校3年にして「早大野球部の伝説」となったか…打率.379、81打点の六大学記録と「岡田がいたから私はプロになれた」
text by
清水岳志Takeshi Shimizu
photograph byKyodo News
posted2023/12/06 11:01
1979年、早稲田大学野球部時代の岡田彰布
ポジションは同じサードで、いつも身近にいて岡田の練習相手を務めた。「キャッチボールの段階で軽やかで、取ったら素早い返球だったし、トスバッティングもコンコンって、リズムよく打ち返して来た」と語るように、岡田のフリーバッティングでサードを守っていると怖かったほどだった、という。
「石山さんから〈右バッターは左腕を引っ張ってフォロースルーを大きく取れ〉と言われていました。岡田さんはフォローが大きくバットを振り抜くので、ボールじゃなくてバットがこっちに飛んでくる感じがするんですよ。初めての感覚で衝撃的でしたし、いまだに脳裏に焼き付いてます」
さらに岡田は守備も軽快だった。レフトを守っていた佐々木は、エラーの記憶がないという。
「三遊間を抜かれない。グラブを出すと、スポンと入る。〈あいつは魔法のグラブを持っているな〉とみんな言ってました。球際に強いんですよ」
なお1年春、岡田は「4月に流行した風疹ににかかってしまった」(島貫)影響で、すべての試合に出ていない。それもあって島貫は「最初から出ていたら、通算安打記録を塗り替えていたんじゃないですか」とも話す。岡田の通算安打は史上7位の117本、ホームランは3位の20本、通算打率.379と通算81打点は未だに破られていない大記録だが、もし最初から万全の調子であれば――それ以上の記録が出ていたのかもしれない。
岡田がいたから私はプロ野球選手になれた
岡田が圧倒的な結果を残したのは3年秋のこと。個人では六大学史上4人目の三冠王に輝き、前述したとおり早稲田も優勝を果たした。正真正銘、岡田が打ってチームを栄光に導いたことになる。4年になってレギュラーになった島貫もまた、プロ入りを果たすのだが――岡田から学んだことは多かったと語る。
「岡田がいたから私はプロ野球選手になれたと思うんです。バッティングを見てると、なんで体格は違わないのにそんなに飛ぶのか不思議で、他の人間と違うものを持っていたんです。下半身の使い方がすごく上手くて参考にしたら高校のときより20、30メートルは飛距離が伸びたほどですから」
周りの選手がみな、岡田を手本にした。そしてチーム力が上がっていったのは間違いない。そんなとびぬけた存在だった岡田が大学時代にライバルとして対戦したのは、後に阪神-巨人の関係でも長年戦うことになる江川卓、原辰徳だった――。
<第3回に続く>