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「本気だった?」誰よりもサッカーを愛した男・松田直樹…34歳で突然逝った希代のDFは何を遺したのか「マツさんの死をきっかけに…」
posted2023/09/27 17:01
text by
二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph by
J.LEAGUE
現在発売中のNumber1081号掲載の[ナンバーノンフィクション]「松田直樹が遺したもの。」より内容を一部抜粋してお届けします。【記事全文はNumberPREMIERにてお読みいただけます】
空は底抜けに青く、雲は猛々しく白い。
北アルプスの麓にある梓川ふるさと公園の多目的グラウンドから天を仰げば、何となく松田直樹がいたずらな笑みをのぞかせてどこかで見ているような気がする。
2011年8月2日、16年間在籍した横浜F・マリノスを離れ、当時JFLだった松本山雅で変わらず熱いプレーを見せていた彼は練習中、このグラウンドで倒れた。急性心筋梗塞と診断され、2日後に天国に旅立った。34歳の若さだった。希代のディフェンダーとして日本代表、Jリーグで活躍した彼の突然の死は、日本中に深い悲しみをもたらした。
今年、十三回忌を迎えた。命日になるといつもここは多くの花束で溢れかえる。時間を置いて松本山雅のスタッフが預かっていくのだが、3週間近く過ぎても隅にはいくつか残っていた。断続的に誰かがやってきては置いていくのだろう。この日もマリノスのステッカーを張った車がグラウンド近くに停めてあった。
松田直樹を偲ぶ人たち――。それぞれが心に刻み、彼が遺したものと向き合いながら自分の人生を歩んでいる。なぜに12年経っても松田への思いは変わらないどころか強くなっているのか。それを知るために、ゆかりある人たちを訪ね歩いた。
松田の姿勢から学んだ「本気だった?」
夏と冬、1年に必ず2度松田が眠る群馬に向かい、墓参りをする律儀な男がいる。松田が山雅にいた'11年、センターバックでコンビを組んだ飯田真輝である。
松田の思いを引き継いでJ2、J1へとステップアップするチームの守備を長らく統率し、当時JFLの奈良クラブでプレーした'21年シーズン限りで現役を引退。すぐさま松本に戻ってきた。
缶ビールを1本、墓前に供えて自分の近況を報告するのが決まり。だが今年の夏は手を合わせながら、うまく報告できない自分がいたという。
「強化の仕事をやることになって、自分が現役だったら、選手に対してああだろう、こうだろうって言える。でも現場のコーチでもないし、僕がどうこう言える立場でもない。その難しさを感じていましたから」
昨年は地域の人々やファン、サポーターとのコミュニケーション、サッカーの普及活動、そしてセンターバックに特化した育成という主に3つの役割をこなす「Community Bond Builder」なる役職に専念できた。
しかし今年からトップチームの強化担当を兼ねることになり、自分が何をやるべきなのか、今ひとつ見えてこない日々が続いた。J3に降格して2年目、中位からなかなか浮上できず、昇格は現実的に厳しいと言わざるを得ない。
一方で解決のヒントは既に自分の手元にあることも感じていた。