熱狂とカオス!魅惑の南米直送便BACK NUMBER
「私がPKを決めていたら」伝説の86年W杯フランス戦、ジーコの両ヒザはボロボロだった「世界の頂点を極められなかったのは残念だが」
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byAFLO
posted2023/09/24 17:02
1986年W杯のジーコ。ファンタスティックなプレーで世界を魅了した名手とセレソンだが、W杯トロフィーには手が届かなかった
「当時、フラメンゴは財政難に陥っており、会長は私を外国のクラブへ売り渡すことでクラブの危機的状況を一気に好転させようと考えていた。本音を言うと、移籍したくはなかった。しかし、クラブが置かれた状況を考えて、最終的に移籍を受け入れた。
ウディネーゼのサポーターは、私を熱狂的に歓迎してくれた。2シーズンだけではあったが、ベストを尽くした。当時のイタリア・セリエAは世界最高のリーグであり、そこでプレーしたことは自分にとって非常に貴重な経験となった」
――1985年7月、古巣フラメンゴへ復帰します。ところが、その翌月、リオ州選手権のバングー戦で相手選手から両足での飛び蹴りタックルという無茶苦茶なファウルを受け、右膝を故障。治療を受けます。
「9月下旬に復帰したが、今度は左膝を痛め、また治療とリハビリの日々を送った」
両膝の状態は万全ではなかった
――セレソンには、1986年4月末のユーゴスラビア戦で復帰。美しいゴールでハットトリックを記録します。
「実は、この試合でも両膝の状態は万全ではなかった。5月末にW杯が始まるので、何とか間に合わせようと無理をしてプレーしたんだ。
ところが、W杯前最後のチリ戦で、また左膝を痛めた。自分では、W杯でプレーするのは無理だと思い、テレ・サンタナ監督にそのように伝えた。しかし、監督から『君はとても重要な選手だから、何とか故障を治し、短時間でもいいからプレーしてくれ』と懇願され、無理を押してW杯へ出場することになった」
――W杯では、グループステージ(GS)のスペイン戦とアルジェリア戦を欠場します(注:セレソンは、いずれも1-0で勝利)。
「本当は、アルジェリア戦に先発することになっていた。しかし、練習中にまた左膝を痛めてしまい、再び治療とリハビリの日々に逆戻りさ」
――GS最後の北アイルランド戦の後半23分、ようやくピッチに立ちます。
「まだ痛みはあったが、我慢しながらプレーした(注:セレソンは3-0で快勝)」
――ラウンド16のポーランド戦も、後半24分からの出場でした。