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甲子園の風BACK NUMBER
“最後通告”の退寮、始発に乗り練習…万波中正が「メンバー外」から挑んだ、最後の夏 恩師が明かす「復活のホームラン」「金足農との激闘」
posted2023/08/23 06:01
text by
佐藤春佳Haruka Sato
photograph by
JIJI PRESS
最後の1枠をかけた、ガチンコ対決
万波中正が3年生で迎えた夏の甲子園第100回大会は、記念大会として出場校を56に増やして行われた。藤原恭大(現ロッテ)や根尾昂(現中日)らを擁する横綱・大阪桐蔭を筆頭に、小園海斗(現広島)率いる報徳学園ら強豪が顔を揃え、戦前までノーマークの存在だった金足農業が吉田輝星(現日本ハム)の熱投で大旋風を巻き起こした、あの大会である。
“最後の夏”を前に、万波は長引く不振のどん底にいた。なにしろ打てず、結果が出ない。春の県大会ではスタメン落ちし、関東大会を前にしても調子は上がらなかった。平田監督はそんな万波に、“最後の1枠”をかけて年下の2年生、明沢一生一塁手と「打てた方がメンバー入り」という“ガチンコ対決”をさせた。チームメートが見守るなか、実戦形式で二人がそれぞれ打席に立った。
「実際にはとてもメンバーには入れることができないような状態でした。それでも僕の本音としては中正に復活してほしかった。最終手段として、どちらがいいかみんなの前でテストしたんです。結果、明沢はノーヒットで万波はホームランを2本打った。表情には出さなかったけれど、内心は少しホッとしましたね」
あの時は本当に辛かったんじゃないかな
崖っぷちでもぎとったメンバー入りだったが、関東大会でも明秀日立との初戦で代打に立ち空振り三振に倒れるなど結果は出ない。指揮官はついに、万波にとって最後の夏である南神奈川大会を前にして一次登録メンバーから外す決断をした。
「周りの選手とのバランスを考えた時に、いくら中正でも外さざるを得ないという段階まで来てしまっていた。本人も当然の結果だという受け止め方はしていたと思います。余計に苦しかったのは、本人は常に向上心があって練習へのモチベーションは全く失っていなかったことです。頑張っているのに結果が出ない。あの時は本当に辛かったんじゃないかな」
「YouTubeでジャッジを見ていたら…」
そもそも、不振の根本的な原因は何だったのか。恵まれた体躯の操作に苦労した点や、発展途上だった技術以外にも、好奇心旺盛だったが故に「軸」が定まらなかった点もある、と平田監督は明かす。