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「もし甲子園に出ていれば…」幻となった履正社”夏連覇の夢”「だったら最後に大阪桐蔭に勝とう」「強いイメージのまま終わりたかった」
posted2023/08/07 17:09
text by
釜谷一平Ippei Kamaya
photograph by
Naoya Sanuki
2020年5月20日。選抜大会に続き、夏の甲子園の中止が決定した。春夏連続で大会が中止になるのは史上初のことだ。「宣告」が下ったことを池田凛が知ったのは、その日の夕方だった。
「家にいて、スマホでニュースを見た気がします。『ああ、終わった』と。外に散歩に行きました。気持ちは落ち込みましたが、よく考えたら自分より、甲子園に一度も出たことのない子の方がもっとつらい。自分は副キャプテンとして、落ち込む姿を見せるよりも、みんなに少しでも響く言葉がかけられたらと思いました」
けれども池田にとっては、甲子園はこれまでの人生のほぼ全てでもあった。
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「自分は小学生の時から、大会の度に甲子園に行って、第1試合から第4試合まで、選手が退場するまでずっとバックネット裏で見ていました。高校生のプレーが本当にかっこよくて、テレビで見てまた感動して。自分もそうなれるように、父に教えられてここまで来られました。父も自分で色々勉強してくれて、バッティングセンターに連れて行ってくれたり、家の前で素振りを見てくれたり。小さい頃からずっと、父にスイングを作ってもらってきました」
池田家は元々、生駒山麓に近い東大阪市にあったが、池田の高校入学と同時に、一家で履正社高校の近隣に転住してきた。大西家と同じく、少しでも野球にかける時間を与えてあげたいという親心である。
しかし、連覇を夢見た親子の願いは、無情にも潰えてしまった。
この痛みは、大人ではわからない
指導者たちにも、簡単には言葉が見つからなかった。野球での失敗や躓きなら、子どもたちの気持ちを前へ向ける言葉はいくらでも持っている。しかし甲子園が消えた今、歴戦の指導者たちですら、その喪失を埋める言葉を持ち合わせていなかった。
多田は、「どうしてやることもできないのが、本当に辛かった」と言った。
平嶋はこう語る。