甲子園の風BACK NUMBER
清原和博は大阪桐蔭ナインに“あるアドバイス”を送っていた… 甲子園初出場で初優勝、1991年大阪桐蔭の真実「もう時効だから明かします」「キーマンは雑用係」
text by
吉岡雅史Masashi Yoshioka
photograph byKazuhito Yamada
posted2023/08/03 10:30
大阪桐蔭が夏の甲子園初出場で初優勝した1991年当時、西武で主力となっていた清原。PLの伝説のバッターは大阪の“新設校”にアドバイスを送っていた
「甲子園で初めての打席はめちゃくちゃ緊張するから、バットが届くと思ったら多少ボール球でも初球からバットを振れ。でないと雰囲気に飲み込まれてしまう」
言葉の主は、当時プロ6年目、23歳にして球界のスーパースターとして君臨する西武の清原和博だった。なぜ清原が大阪桐蔭にアドバイスを送ったかというと、野球部長の森岡正晃がPL学園OBだったからだ。
清原さんでも緊張したんや
憧れの大舞台を間近に控えて、高校生離れした集団とはいえ、不安はぬぐえなかったという。そこで森岡がPL関係者を介して、母校の後輩に甲子園での心構えを尋ねた。清原が高校3年間で残した甲子園通算13本塁打は不滅の記録だ。“甲子園の申し子”と呼ばれた怪物にしてバットが振れなくなるほどの緊張を体験したとは、意外と言っては失礼だろうか。
貴重なアドバイスをもらった選手たちも安堵した。「清原さんでも緊張したんや」。だから初出場のセンバツでも、迷わず積極的にバットを振ることができたのである。
センバツはベスト8。夏でのさらなる飛躍を誓ったナインだったが、大阪大会3回戦で“因縁の相手”に大苦戦を強いられる。
<続く>
記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。