甲子園の風BACK NUMBER
清原和博は大阪桐蔭ナインに“あるアドバイス”を送っていた… 甲子園初出場で初優勝、1991年大阪桐蔭の真実「もう時効だから明かします」「キーマンは雑用係」
text by
吉岡雅史Masashi Yoshioka
photograph byKazuhito Yamada
posted2023/08/03 10:30
大阪桐蔭が夏の甲子園初出場で初優勝した1991年当時、西武で主力となっていた清原。PLの伝説のバッターは大阪の“新設校”にアドバイスを送っていた
“1期生”のエースは今中慎二
1988年、大阪府東部の大東市に大阪桐蔭高校は開校した。コアな高校野球ファンなら口ずさめるであろう、校歌の「生駒の峯の松風が~」の一節通り、奈良県にまたがる生駒山の麓に校舎があり、野球部グラウンドはその山間。それまでは大阪産業大学高校大東校舎。運営母体の学校法人が普通科教育に力を入れるため、分離独立を決定した。ちなみに大東校舎の校章に桐の葉が意匠されていたことが、新校名の由来となった。
大阪桐蔭“1期生”のエースは、サウスポーの今中慎二。今中は1988年の秋、中日からドラフト1位指名されるが、この夏、高校ナンバーワン投手を擁しながら、大阪桐蔭はなんと大阪大会初戦で公立の進学校・茨木に1-2で敗れてしまう。今中は評判に違わず15個の三振を奪ったが、幕切れは延長12回、サヨナラトンネルだった。
監督は山口高志と一緒に日本一を達成した名打者
筆者が大阪桐蔭の練習の取材に訪れたのはその2年後、井上・萩原がまだ2年生だった90年の冬だった。
秋の近畿大会ベスト4でセンバツに当確ランプが灯り、長澤和雄監督の話を聞きに初めて生駒グラウンドに出向く。監督は物静かではあるが、決して無口というわけではなく、筆者がヘルメットを借りて打撃ケージに近づきカメラのシャッターを切っていると「似合わんなあ。野球は着こなしやで。うまい選手はみんなユニフォーム姿がかっこええやろ、うちの連中みたいに」と大声を出して、選手を笑わせた。
大阪桐蔭の初代監督となった長澤は高校時代、関西大学第一高校のエースとなるも、大阪大会はベスト4が最高成績。進学した関西大学ではセンターにコンバートされ、4年間でリーグ優勝7度、最終学年の1972年には4番打者として大学球界初の春秋日本一を、同級生で大エースの山口高志とともに成し遂げた。その後、社会人野球の大丸へと進み、全日本の4番を任されたアマ屈指の強打者だった。