甲子園の風BACK NUMBER
清原和博は大阪桐蔭ナインに“あるアドバイス”を送っていた… 甲子園初出場で初優勝、1991年大阪桐蔭の真実「もう時効だから明かします」「キーマンは雑用係」
text by
吉岡雅史Masashi Yoshioka
photograph byKazuhito Yamada
posted2023/08/03 10:30
大阪桐蔭が夏の甲子園初出場で初優勝した1991年当時、西武で主力となっていた清原。PLの伝説のバッターは大阪の“新設校”にアドバイスを送っていた
長澤が選んだチームのキーマン
この時の取材は、出場32校を紹介する『ピーヒャラセンバツ うちのキーマン』のタイトルが付いた連載のため。テーマにふさわしい部員を紹介してくれるよう頼むと、長澤は「ちょうどええ子が来たわ」と、お茶を運んできてくれた柴誠を推薦した。柴はピッチャー兼雑用係。身長182センチはWエースの和田友貴彦、背尾伊洋より高く「歴史の新しい学校を強くしたい」と、意気揚々と大阪桐蔭の門をくぐった。しかし入学直後に心臓に疾患が判明。マウンドに戻れる日を目指し、アイシング用の氷を一輪車に積んで寮からグラウンドまで30分の山道を、トレーニングを兼ねて毎日黙々と運び続けたという。
主砲でもエースでもなく裏方への配慮に、野球人・長澤の本質を見た気がした。大阪桐蔭のモットー「一球同心」は、長澤の母校・関大野球部から受け継いだもので、大きな横断幕がフェンスに掲げられていた。「ひとつのボールにみんなが気持ちをひとつにする。この言葉が好きでね」と長澤は口元を緩めた。このモットーは同じ関西大学出身の西谷浩一現監督の体制でも引き継がれている。
怪物は「真面目でいい奴」という評のみ
初の甲子園出場となった91年センバツ初戦の仙台育英戦。躍動したのは4番・萩原誠だった。第1打席はフォアボールで、3回の第2打席、低い弾道をセンター右寄りへ放った。記者席からはセンターライナーがフェンス直撃に思えたが、白球はそのままバックスクリーン右に吸い込まれた。
沸きあがるスタンドの熱気とは対照的に、とっさに「まずい」と焦った筆者は、試合経過そっちのけでアルプス席に向かう。萩原のエピソードを全然把握していなかったからだ。萩原は質問には誠実に答えてくれるが、リップサービスのできる性格でもない。大阪での朝刊1面確定となったからには、強烈な甲子園初アーチを放った選手の逸話ないし武勇伝を入手せねばならなかった。