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「広岡達朗ってどんな監督だった?」異端だった食事制限、結果出してすぐ去る…本人が語る真相「落合博満は理解できる。ただ説明を省きすぎる」
text by
阿部珠樹Tamaki Abe
photograph byKYODO
posted2023/05/13 06:05
監督としてセ・パ両リーグで日本一に導いた広岡達朗。12年前のNumberインタビューで語っていた監督論を特別公開する
語っていた「落合博満評」
広岡自身は、現役の監督の中では、落合博満に注目しているようだ。
「じっくり話したり、練習を見たわけではないが、ぼくの見た範囲では彼の考えていることはなんとなく理解できる。バットをしっかり振る体ができるまでは、技術を教えても身に付かないという考えがあるのだろう。でも、彼は少し説明の手間を省きすぎる。プロならいわなくても分かるというのは通用しない。特に今の若い人は、損得で動く。この練習をすればこういういいことがあると納得しないとやらない。だから、こういう得があるよって、言葉でしっかり説明してやらなくちゃね」
「今、監督やったら? 負ける気はしないね」
スワローズの日本一は監督就任の2年目。ライオンズの日本一は就任1年目。広岡の特徴はきわめて短時間に最高の成果を出すことだろう。だが、不思議なことに、いわゆる「長期政権」は経験しなかった。妥協のない指導と筋の通し方が、妥協好きで普通の論理が通用しないことも多い球界の体質と衝突してしまうからなのだろうか。
「ぼくは人から好かれるとか嫌われるとかを意識したことはないね」
好かれたいから妥協する。嫌われたくないから手を緩める。そんなことをして地位に恋々とする気はない。
「今、監督やったら? 負ける気はしないね」
広岡は来年80歳になる。その真っ直ぐ伸びた背筋と緩みのない表情を見るととても傘寿などには見えないのだが。
「80まで生きたから、自分のやってきたこと、考えてきたことが正しいといわせてもらう権利もあるだろう。だから、本にでもまとめてみようかと思っているんです」
日の目を見れば、新しい指導者バイブルになるだろう。
広岡達朗Tatsuro Hirooka
1932年2月9日、広島県生まれ。早大を経て'54年に巨人入団。'77年ヤクルト監督になり、2年目でチーム初の日本―に導く。'82年から西武で指揮を執りV2達成。'85年のリーグ優勝後、退任。'95年にはロッテで日本初のGM就任。