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60年前に100mを11秒で…“伝説のウイング”杉山隆一81歳の豪快人生「三笘薫は昔の私にそっくり」「酔っ払って小松政夫とケンカを…」
text by
田中耕Koh Tanaka
photograph byAFLO
posted2023/04/10 17:20
現役時代の杉山隆一(1973年)。日本代表通算56試合15得点、三菱重工では3度のアシスト王と年間最優秀選手賞に輝いた“レジェンド”だ
この頃、杉山の夢は日本代表の選手になることだった。東京五輪に出るためには、高校卒業後の進路が重要だった。きょうだいが多く、父が営む酒の小売店だけでは家計は苦しかった。杉山は八幡製鉄に行くことを考えていた。しかし、実業団よりも大学が強い時代だった。すると、ユース代表監督から日本代表の監督になっていた高橋が突然、自宅に訪ねてきた。高校3年の秋だった。
高橋は父に頭を下げた。
「息子さんはオリンピックの選手になれるかもしれない。大学へ行かせてやってください」
杉山を跡取りにと考えていた父は「まさか」と目を白黒させていたが、高橋の必死の説得に「おまえはそんなにサッカーがうまいのか」と折れ、大学進学を認めてくれた。
ところが、勧誘があった立教大を受験すると不合格。「必ず入れてやる」と言った約束を反故にされ、杉山は路頭に迷った。
「大人なんて信用できない」――はらわたが煮えくり返る思いだった。しかし、そう思ったのも2日ほど。杉山は足も速いが、気持ちの切り替えの早さも天下一品だった。「1年の浪人なんて、長い人生の中ではたいしたことじゃない」とプラスに考えたという。
豪快な飲みっぷりでツケの総額は200万円に
浪人中は、世田谷・三軒茶屋の親戚宅に下宿して大学受験の準備をしながら、ユースの監督だった岡野俊一郎のクラブチーム「東京トリック・クラブ」に籍を置いた。通称「トックリクラブ」と呼ばれるほど酒好きが集まり、杉山も歓楽街に連れていかれた。それ以来、杉山と酒は切っても切れない関係になる。
三菱重工時代、新宿3丁目に「どん底」という行きつけの店があった。週に4回は通い、作家の三島由紀夫や放送作家の青島幸雄も常連だった。タレントの植木等のカバン持ちをしていた小松政夫とは、酔っ払って胸倉をつかみ合うケンカをしたこともあった。
「まあ酒はよく飲んだね。家族には申し訳ないことをしたけど」
ツケで飲んでいたため、三菱重工を辞める時には200万円を超えていた。この時、初めて妻に打ち明けたら「やっぱりね」と気づかれていたことがわかり、小遣いを減らされ借金を2年で返済したという。
山あり谷ありの人生を歩んだ杉山は、1年の浪人生活を終えて明治大に進学する。そこで、生まれて初めて「サッカーとは何か」を教えてくれた偉大な指導者との出会いが待っていた。
<つづく>
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