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「ノムさんが呼んどるぞ」10年前、門田博光が初めて語った“野村克也への後悔”「寂しい背中で部屋から…」噂と違った“カドタの実像”
posted2023/01/28 11:00
text by
田尻耕太郎Kotaro Tajiri
photograph by
Sports Graphic Number
昭和の時代がまた遠くなってしまった。プロ野球歴代3位の通算567本塁打、同4位の通算2566安打、同3位の通算1678打点を記録した門田博光さんがこの世を去った。74歳だった。
門田さんは1970年(昭和45年)ドラフト2位で南海(現ソフトバンク)に入団。79年2月のキャンプで右アキレス腱断裂の大怪我を負いながら、その後見事な復活を果たしてホームラン王3回、打点王2回のタイトルを獲得した。
特に88年(昭和63年)シーズンは40歳で打率.311、44本、125打点の成績を挙げて二冠王に輝き、“不惑の大砲”と呼ばれ社会現象を巻き起こした。
「あの人は気難しいぞ」…10年前の取材で。
そんな門田さんに、筆者は一度だけじっくりと話を伺ったことがある。
今から10年前の2013年のこと。ホークスが球団創立75周年を迎えた記念事業としてホークス75年のベストナイン「LEGEND HAWKS」を決める企画が行われた。ファン投票と並行して、識者にも選定してもらおうということで何人かの球団OBを訪ねてインタビューすることになった。そこで門田さんにオファーをしたのだ。
球界のレジェンドと直接会える滅多にない機会。その幸運に興奮したのは今も憶えている。だが一方で、気が重かったというのも正直な気持ちだった。
事前準備のため、日頃から親しくさせてもらっている南海やダイエーのOB数人に門田さんに会うことを伝えて情報を得ようとしたのだが、みな表情が曇るのだ。
「あの人は気難しいぞ……」
「変わり者って言われてたな」
「マスコミ嫌いだから、喋ってくれないかもよ」
筆者は当時30代半ばで、ライター界でいえばまだ若造の部類。門田さんの活躍は小学生時代に少し見ていたくらいだ。失礼があってはいけない……。資料集めや予習にかなりの時間をかけて、いざ当日、博多から新幹線に乗って人生で初めて兵庫の相生駅に降り立った。