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「門限を破った加藤哲郎が2階から入って…」元近鉄ドラ1選手が明かす“自由すぎた選手寮” 加入直後のブライアントにスパイクを貸すも…
posted2022/12/27 11:01
text by
岡野誠Makoto Okano
photograph by
JIJI PRESS
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「すみませんが、お断りします」
長嶋一茂や立浪和義が目玉候補だった1987年のドラフト会議前日。社会人野球・日本通運で5年目を迎えていた高柳は、ロッテの金田留広投手コーチから「1位で行く」と電話で告げられると、拒否の姿勢を示した。
「日本通運の先輩で交流があったんですよ。でも、ロッテは絶対に行きたくなかった。広島も練習がキツくて嫌だなと。近鉄や南海も入団する気はありませんでした」
閑古鳥が泣く「あの頃のパ・リーグ」
当時、パ・リーグは人気面でセ・リーグに大きく差を広げられていた。同年の観客動員数はセの1206万人に対し、パは695万人(いずれも公称、延べ人数)。ロッテの本拠地である川崎球場では試合中にファンが流しソーメンをはじめたかと思えば、カップルが体を寄せ合って濃厚なキスをする。南海の本拠地である大阪球場では、阪急の応援団が「おーい、門田。豚まんやるぞ~。一緒に食べよう」と野次を飛ばしていた。そのようなシーンが『珍プレー好プレー』などで流れ、閑古鳥の鳴く印象が強かった。
「ヤクルトのスカウトから『一茂を外したら1位で行く』と伝えられていたんですよ。でも、大洋との抽選に勝ったから、指名はなかった。ただ、4年後に法政大学から近鉄に入ってきた高村(祐)が『高校の時、僕もヤクルトにそう言われました』って。その年、大洋の外れ1位になった盛田幸妃からも同じ話を聞いたんですよ。だから、何人にも声かけていたんでしょうね(笑)」
「嫌な球団だったら泣いたフリしろ」
1983年に春日部工業高校から日本通運に入社したものの鳴かず飛ばずで、野球部からクビを言い渡されてもおかしくない状況だった高柳は、5年目に突如として開花する。