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「門限を破った加藤哲郎が2階から入って…」元近鉄ドラ1選手が明かす“自由すぎた選手寮” 加入直後のブライアントにスパイクを貸すも…
text by
岡野誠Makoto Okano
photograph byJIJI PRESS
posted2022/12/27 11:01
1989年日本シリーズ、近鉄vs巨人。第3戦で勝利した近鉄のヒーロー、加藤哲郎と光山英和(左)
「同じ会社のエースが、1986年のドラフトでロッテに指名されるはずでした。それで監督が『来年は高柳を主戦で行く』と宣言してくれたんですよ。あの一言でスイッチが入った。ただ、ドラフト前になってロッテが落合(博満)さんを放出すると決めた。トレードでピッチャーを何人か獲るから、そのエースは結局、指名されなかったんです」
1987年のドラフト会議で1番人気は夏の甲子園を沸かせた東亜学園の川島堅だった。3球団が指名して広島が交渉権を獲得。くじを外した近鉄は高柳を指名した。
「(日本通運の)監督に『嫌な球団だったら泣いたフリしろ』って言われていたんですよ。近鉄と聞いた瞬間、本当に涙が出ました。長嶋(茂雄)さんに憧れて野球を始めましたし、関東人なので在阪球団は全く考えていなかった」
近鉄入団の裏に“仰木彬の存在”
会社に残留する手もあった。高柳の心境を変えたのは、近鉄の監督に就任したばかりの仰木彬だった。
「ドラフトが終わってすぐ、会社まで飛んできてくれて。あの辺が仰木さんの凄さですよね。名前も顔もわからず『この人、誰?』と思っていたら、『権藤(博)という良いピッチングコーチを呼んだから』と言うんですよ。“権藤、権藤、雨、権藤”のフレーズで権藤さんを知っていたので、入団に前向きになりました」
この年、高柳は長嶋一茂や野村謙二郎、古田敦也などの集まるソウル五輪アジア予選のメンバーに選ばれ、本大会出場に貢献していた。
「オリンピックに出たい気持ちは全くなかったですね。もし目指したとしても、本番では全日本に入れなかったと思いますよ。野茂(英雄)とか渡辺智男とかすごいメンバーでしたから。このタイミングでなければ、僕のドラフト1位はなかったでしょうね。なるべくしてドラ1になる人と違って、運がいいとしか言いようがない。しかも、近鉄には仰木さんや権藤さんがいたわけですから」
入寮後、門限を破った加藤哲郎が…
年が明け、1988年が始まった。埼玉から大阪・藤井寺の『球友寮』に入った高柳は1日目から度肝を抜かれる。