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「久保建英が鼻歌を歌いながら…」現地で記者が目撃した“チーム最年少・久保の素顔”…クロアチア戦後に語っていた「押し通すくらいの『個』」
posted2022/12/23 11:05
text by
矢内由美子Yumiko Yanai
photograph by
Kiichi Matsumoto/JMPA
アルゼンチンの劇的な優勝で幕を閉じたカタールW杯。日本代表のメンバーたちは既に多くの選手が所属チームに戻り、各国リーグの後半戦や新シーズンに向けて準備を整えているが、激闘の記憶は今なお色あせない。現場でハッとさせられた瞬間や目に焼き付いた選手の姿には、中継には映らなかった取材エリアでの記憶も多く、久保建英はその筆頭格だった。
「体調は良くないですけど、今ここでメディア対応しないと、後で場を設けなきゃいけないので、やることにして、ここにいます」
体調不良で欠場したクロアチア戦から一夜明けた12月6日。久保は日本代表メンバー全26選手によるメディア対応の場所にやってきた。
久保がメディアの前に姿を現したのは12月1日のスペイン戦以来、実に5日ぶりだった。12月3日に発熱した久保は新型コロナウイルスには感染していなかったため、「解熱剤を使ってでも(クロアチア戦に)出たい」(久保)と熱望したものの、「ドクターストップがかかった」(同)という。
自身が不在の間にチームが敗れるというぶつけようのない悔しさは想像に難くなく、メディア対応の場に出てくること自体、複雑な思いがあっただろう。
それでも久保は出てきたし、ひとつひとつの質問に対して丁寧に答えた。そして、宿舎のベッドに伏していた数日間で湧き上がっていたのであろう今後への思いも、ハッキリと口にした。よどみのない口調は、21歳にして十分に身につけている胆力を感じさせた。
カタール入りした久保が語った「誇り」
取材エリアの空気も自らコントロールできるたたずまい。それは、「順調ではなかったと思っている」と振り返った、ここ数年の歩みが土台となっている。
18歳の誕生日を機にFC東京を離れ、19年夏にレアル・マドリーと契約をかわしてからは、マジョルカ、ビジャレアル、ヘタフェ、マジョルカと期限付き移籍を繰り返し、若くして多くの浮き沈みを乗り越えながらここまできた。そして22年夏、ソシエダへ完全移籍。
カタール入りした久保は、「結果だけで言えば今、W杯の場所にいることがすべてなので、この4年間は正解だったとも思う。でも、細かく見ていくと難しい時期もあって難しい選択をしてきた。そのことに誇りを持ちたい」と語っていた。
思えばW杯イヤーである22年だけを見ても、6月からの約半年間はジェットコースターのようだった。6月の国際Aマッチ「キリンチャレンジカップ」では、マジョルカで先発の座を失っていた流れからの日本代表合流でもあり、4-3-3システムの中で明らかに存在感を失っていた。